不徳の致すところ
別表記:不徳の致す所
不徳の致すところとは、不徳の致すところの意味
不徳の致すところ(ふとくのいたすところ)とは、この好ましくない状況が生じたことについては自分に責任がある、と表明する言い回し。自分に十分な「徳」が備わっていなかったため(つまり至らなかったため)、今回のような事態になった、という趣旨。失敗やトラブルについて、遺憾の意を示し、かつ迷惑を被った周囲の関係者に謝罪する表現である。失敗やトラブルの直接的な原因は、必ずしも、その人自身に帰するとは限らない。むしろ自身ではなく部下や教え子がやらかした際に、指導者・責任者の立場にある者が責任をとって謝罪する場合に「不徳の致すところ」という言い回しが用いられる場合が多い。これは、部下や教え子などの失態が、根本的には自分の指導力不足・監督力不足・人望の不足などに起因するものである、という意味合いが込められているわけである。
不徳の致すところの使い方
「不徳の致すところ」は、「私の不徳の致すところであります」といった言い回しで用いられることが多い。「私の不徳の致すところであります」は、失敗・トラブル・不祥事などについて謝罪の気持ちを表明する場面で幅広く使える。失敗やトラブルの具体的内容や、失敗に直結した原因が何であるかを問わず、責任者として謝る場合には幅広く使える。
「私の不徳の致すところであります」は文語的で定型的な言い回しであり、フォーマルな場面でも使える。それ単独でも謝罪の表現として十分に使えるし、「申し訳ございませんでした」のような直接的なお詫びの表現と並べても違和感はない。
「不徳の致すところ」は明確に非を認めて責任を取るための、それなりに深刻さの度合いが高い表現である。軽度のトラブルに関する詫び文句として使うと、かえって違和感が生じる。
不徳の致すところの類語と使い分け
「不徳の致すところ」は、自分自身に非があることを認める(責任の所在を示す)丁寧な謝罪の表現であるから、類義・類似の表現としては「申し訳ございませんでした」や「お詫び申し上げます」あるいは「責任は私にあります」のような言い回しが挙げられる。語呂の似た言い回しとしては「不明の致すところ」という言い方がある。これは「物事を見抜く力がなかった(のでこのような結果に至ってしまった)」といって詫びる表現である。
不徳の致すところの語源
「不徳の致すところ」は「十分な徳が備わっていないことが(よくない結果を)引き起こした」という意味の文語的な言い回しである。平安時代初期に編纂された史書「続日本紀」には、聖武天皇の「良由朕之不徳致此災殃。仰天慚惶」という詔(みことのり)が記されている。 良由朕之不徳致此災殃。仰天慚惶。
朕の不徳によりこの災殃(災難)に至った、天を仰いで恐れ入り恥じ入っている 聖武天皇の治世(8世紀、天平年間)は疫病(天然痘)や災害が多発し、おびただしい死者が出た。とりわけ天然痘は、百姓はおろか宮中の高官の命も次々と奪った。聖武天皇は仏の功徳による国家安寧を発願し、国分寺や東大寺盧舎那仏などを建立するわけであるが、それはさておき、聖武天皇は疫病や自然災害という災禍について「朕の不徳の致すところである」と述べたわけである。自分では制禦できない災禍の責を、統治者として自ら負う、このニュアンスは現代の「不徳の致すところ」にも通じるものがあるといえる。
なお「不徳」という語彙は現代中国語にはない。漢語では「無徳(无德)」という。
不徳の致すところのよくある間違い
「不徳の至るところ」ではない。「至るところ」は「あらゆる場所に」という意味の言い回しであって「不徳の~」と混同してはならない。「致す」は「ものごとが行き着く」という意味で(たいてい悪い意味で)用いられる動詞である。「不徳の致すところ」は誠意を込めて用いられる謝罪の言葉であるが、使い所はよく見極める必要がある。「ひとこと詫びれば済む」くらいの軽い詫びに使うと違和感が生じる。また、「明確に自分に直接の原因がある・誰が見ても自分が悪い」ようなトラブルについて「私の不徳の~」と言うと、「当然だ馬鹿者」という反感を覚える人がいるかもしれない、という懸念がある。
「不徳の致すところ」の例文・使い方・用例・文例
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