あいざわ‐じけん〔あひざは‐〕【相沢事件】
相沢事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/26 06:26 UTC 版)
相沢事件(あいざわじけん)は、1935年8月12日に皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍歩兵中佐(陸軍士官学校第22期、以降「陸士」と略す)が、統制派の軍務局長永田鉄山少将(陸士第16期首席、陸軍大学校第23期恩賜)を陸軍省において白昼斬殺した事件である。被害者側の名前から、永田事件、永田斬殺事件とも言う。
注釈
- ^ 陸軍将官の人事決定は三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の協議の上でなければやらないという、大正二年に大正天皇の裁可を得た規定を破り、教育総監の意志を無視して二長官だけの決議で教育総監を罷免した事件
- ^ 真崎の反駁に対し林陸相は苦し紛れに「これは実は南大将と永田局長との策謀で、南大将は自分に火中の栗を拾わせようとしている。満州から帰ってからこの策謀は激しくなった」と言った。[要出典]
- ^ 1935年(昭和10年)8月1日夜、陸軍省整備局長の山岡重厚中将が林銑十郎陸軍大臣と会談し、「真崎大将はなぜに免ぜられたるや?」という山岡の質問に対し、林大臣は「南、永田の工作にしてその他稲垣次郎中将(閑院宮別当)、鈴木荘六大将(前参謀総長)、植田謙吉、林弥之吉中将らより総長宮に申し上げ、殿下は真崎の現役を免ぜよとの御意なりしも、総監を免ずるだけとせり」と返答した。(菅原裕『相沢中佐事件の真相』)
- ^ 2人を行政処分によって免官とした。陸軍の内規によると、将校は身分保障制度があり、受恩給年限に達する前には行政処分による免官はできない。裁判によるべきこととなっていた。2人はこの処分を、非合法なりとして反対し、われわれは、軍の改革を叫んでも非合法手段はしないという方針だったが、上で非合法をやるなら、俺たちも非合法を採らざるを得ないというにいたった、と荒木貞夫は述べている(荒木貞夫『荒木貞夫風雲三十年』)
- ^ 鵜沢は衆議院議員時代に陸海軍軍法会議法の制定に関わったことがあり、自らが関与した法律で裁かれる人物を弁護するのは当然のことと考えていた(『明治大学百年史』 第四巻 通史編Ⅱ、514-515頁)。
- ^ 前任者の鵜沢総明は相沢の弁護を担当したことで皇道派寄りの人物との誤解を受け、二・二六事件発生時には身柄を一時拘束され、相沢事件の担当弁護人も貴族院議員も、1938年(昭和13年)には明治大学総長も辞任を余儀なくされた(『明治大学百年史』 第四巻 通史編Ⅱ、515頁)。
- ^ 荒木、真崎が中佐の背後にあるがごとくデマを飛ばし、両名を中佐とともに葬り去ろうとの陰険な策動が軍中央部で行われていたときであったので、弔問は控えるべきだとか、軍服でなく私服で行くべきだと荒木の知人たちは忠告したが、荒木夫人が「相沢さんが国を思うご一念から倒れられた以上、弔問されるに何の遠慮がいりましょう。いわんや現役軍人であられる閣下が、軍服で行かれることは当然すぎるほど当然で、遠慮される必要はありますまい」と毅然と言い、荒木は憲兵の監視する相沢家へ堂々と軍服で弔問したという(菅原裕『相沢中佐事件の真相』)。
- ^ 新見大佐は下を向いて報告していたので、すぐ右側を走り抜けた相沢に気づかず、正面に来て初めて気づいた。視野狭窄におかされ白内障も併発していたという(岩田礼『軍務局長惨殺』)
- ^ 実際には、山田大佐は局長室にいて、ついたてのところで「相沢、よせ、よせ」と口走るばかりであったという(岩田礼『軍務局長惨殺』)。
- ^ 永田が立案作成した三月事件の計画書。事件が未遂に終わった後、計画書は焼却することになったが、小磯がその一部を軍務局長室の金庫に入れたまま忘れてしまい、後任の山岡重厚が問題の計画書を手に入れたということである。
出典
- ^ 末松太平『私の昭和史』
- ^ a b c 菅原裕『相沢中佐事件の真相』
- ^ 永田鉄山軍務局長、現役中佐に斬られる『東京日日新聞』(昭和10年8月13日夕刊).『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p1 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 大前信也「陸軍の政治介入の淵源について(Ⅱ)-陸軍予算と二・二六事件-」(『政治経済史学541』)
- ^ 岩淵辰雄『軍閥の系譜』
- ^ 日本近代史料研究会編『亀井貫一郎氏談話速記録』
- ^ 血盟団、二・二六事件などの記録提出命令(昭和20年12月16日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p345 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
相沢事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:22 UTC 版)
1935年8月12日白昼に、国体原理派の一員であり、真崎大将の友人であった相沢三郎中佐が、報復として統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長を殺害する事件を起こした(相沢事件)。1936年1月下旬に始まった相沢の公判では、相沢と国体原理派の指導者たちが裁判官とも共謀して、彼らの主張を放送するための講演会のようにしてしまったため、報道は過熱した。マスコミにおける相沢の支持者たちは、相沢の「道徳と愛国心」を称賛し、相沢自身は「真の国体原理に基づいて軍と国家を改革しようとした純粋な武士」と見なされるようになっていった。
※この「相沢事件」の解説は、「二・二六事件」の解説の一部です。
「相沢事件」を含む「二・二六事件」の記事については、「二・二六事件」の概要を参照ください。
相沢事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 16:08 UTC 版)
「相沢事件」も参照 1935年(昭和10年)7月15日に真崎甚三郎が教育総監を更迭された。これに不満を持った真崎は自身の更迭の経緯を文書にして皇道派青年将校に配布した。これを読んだ相沢は憤激し、永田鉄山軍務局長が陰謀の首魁であると考え、上京し永田に面会を求め辞任を勧告したが、逆に諭され満足して福山へ戻った。この頃、相沢は常軌を逸した振る舞いが目立ったため、定期異動において同年8月1日、台湾歩兵第1連隊付で台北高等商業学校配属将校となった。同年8月12日に千駄ヶ谷の西田税宅に一泊した後、陸軍省の山岡重厚整備局長に異動の挨拶をおこなったその足で永田鉄山軍務局長を訪れ、斬撃と刺突を加えて殺害した。
※この「相沢事件」の解説は、「相沢三郎」の解説の一部です。
「相沢事件」を含む「相沢三郎」の記事については、「相沢三郎」の概要を参照ください。
相沢事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 16:44 UTC 版)
「相沢事件」も参照 1934年(昭和9年)11月に陸軍士官学校事件が起こる。村中孝次大尉、磯部浅一一等主計をはじめ青年将校らは、「これは、我々を陥れる辻政信大尉と片倉衷少佐による陰謀であり、永田が暗躍しており、真崎教育総監の失脚を目論む統制派の陰謀である」と主張した。 青年将校らの政治策動を封じるために、少なくとも真崎大将の教育総監は退いてもらわねばならないという議論が、武藤章中佐や池田純久中佐といった統制派を中心に起こり、「多少の波乱があっても、それを覚悟しても断行せねばなるまい。波乱といっても大したこともあるまい」という結論に達した。 そこで永田軍務局長は陸軍大臣の林銑十郎大将に真崎大将転補のことを相談すると、林陸軍大臣は真崎大将の転補を断行することを決意した。 1935年(昭和10年)7月15日の異動において真崎教育総監が更迭された事が、あたかも永田の暗躍ないし陰謀によるもので、統帥権の干犯であるかのように皇道派に喧伝された。 それを真に受けた歩兵第41連隊付の相沢三郎中佐は、同年7月19日に有末精三中佐の紹介により永田に面会し辞職を迫った。 同年8月12日、その相沢に軍務局長室で殺害された。51歳没。
※この「相沢事件」の解説は、「永田鉄山」の解説の一部です。
「相沢事件」を含む「永田鉄山」の記事については、「永田鉄山」の概要を参照ください。
相沢事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/25 00:55 UTC 版)
1935年8月12日に発生した相沢事件において、殺害された永田鉄山軍務局長と、東京憲兵隊長・新見英夫大佐と共に在室していた。新見大佐は、永田をかばって相沢三郎中佐に斬りつけられ、重傷を負ったが、山田大佐は局長室から姿を消していた。そのため事件後、軍内部及び世間から批判を受け、山田は事件から約2ヶ月後の10月5日に「不徳の致すところ」という遺書を残し、自宅で自決した。
※この「相沢事件」の解説は、「山田長三郎」の解説の一部です。
「相沢事件」を含む「山田長三郎」の記事については、「山田長三郎」の概要を参照ください。
相沢事件と同じ種類の言葉
- 相沢事件のページへのリンク