ひろた‐こうき【広田弘毅】
広田弘毅 ひろた こうき
福岡県生まれ。外交官、政治家。父が石屋の養子となり、広田姓を名乗る。第一高等学校、東京帝国大学を卒業後、外務省に入る。大正12年(1923)欧米局長。その後、オランダ公使、ソ連大使等を歴任し、昭和8年(1933)斎藤内閣に内田外相の後任として入閣。岡田内閣では留任。11年(1936)3月、2・26事件後の組閣で首相に就任するが、翌年1月には総辞職した。同年貴族院議員となる。第1次近衛内閣で外相に就任。戦後、A級戦犯となり極東国際軍事裁判で文官としてはただ一人死刑となった。
キーワード | 外交官, 政治家, 首相 |
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広田弘毅
広田弘毅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/01 14:23 UTC 版)
広田 弘毅(ひろた こうき、旧字体:廣田 弘毅、1878年〈明治11年〉2月14日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう、旧字体:丈󠄁太郞)。
注釈
- ^ 広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』などでは正式な社員とならなかったとしており、『落日燃ゆ』などでも踏襲されているが、服部龍二は玄洋社記念館の館報『玄洋』第2号の記述から広田が正式な社員になったとしている(服部、4-6、16p)。また東京裁判開廷前のキャルプーン・フェルプス大尉による尋問では「イギリスから帰ったとき青年教育のために入社するよう求められ、改めて社員になった」と供述している(服部、229-230p、『国際検察局尋問調書』第28巻よりの引用)。
- ^ 伊藤博文、原敬を代表するように、明治以降は業績主義が徹底していたが、首相は士族や富農の出がほとんどである。
- ^ この人物たちが陸軍にとって好ましくない理由としては、吉田茂は重臣である牧野伸顕の女婿であるため、川崎卓吉は内相なのに党人であったため、小原直は天皇機関説に対して厳格な態度をとらなかった人物であったため、下村海南は東京朝日新聞の副社長であったため、中嶋知久平は軍需産業に関係があり、政党に資金を出していたためであった。
- ^ 総辞職直前の閣議前に、「閣議で陸海軍大臣が論争するようなことがあっては面白くない」と西園寺の秘書原田熊雄に語っている。(服部、145p、原田熊雄『西園寺公と政局』よりの引用)
- ^ 広田弘毅の訓電を受けた日高信六郎は7月17日夜、王寵恵外交部長を訪ねて公文を手渡し「日支間の平和を維持するためには、何はともあれ7月11日の現地停戦協定を実行して事件の拡大を阻止することが最緊要である。また現地におげる日支両軍の兵力は、日本側が比較にならぬほど少ない(支那駐屯軍・5774名)ものであるから、事件の勃発以来、現地の事態が切迫したために日本側では居留民の保護を十分にするためだけ ではなく、駐屯軍の安全のためにも増援部隊を送る必要に迫られているのである。従ってまず、現地で停戦協定を実行して空気を緩和することが重要である。こういう時に当たって南京政府が北支に増兵することは事態拡大の危険性をもっとも多く含むものである。ゆえに現在、盛んに北上しつつある国民政府・中央軍を速やかに停止して欲しい」と述べた。これは英訳して「在南京の英米大使」にも送られた。
- ^ この時有田に対し「黙っていても、上海に来ている、南京側の者をはじめ、いろいろな人が、自然君に接近してくるだろう。そんなところから蔣介石との交渉の端緒をつかみたいと思っている」と語っている。服部、164p(有田八郎『馬鹿八と人はいう』より引用)
- ^ 広田とディルクセンは同時期に駐ソ大使を務めており、両者の間には交友があった。
- ^ 尋問調書が米国の国立公文書館に保存されている。以下、内容については2007年8月13日放送のNHKスペシャル「A級戦犯は何を語ったのか ~東京裁判・尋問調書より~」による。尋問調書は英文で180ページに及ぶ。
- ^ 当時駐華大使館の参事官であった日高信六郎は閣議に持ち出すことは「逆効果であったろう」として、広田が最も有効な手段をとったとしている。服部、184-185p(広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』よりの引用)
- ^ 木戸は裁判で終身刑になっている。ただし、木戸が弁明に努めた背景には、「天皇側近の木戸に対する判決は天皇への判決に等しい意味を持つ」と木戸らが見ていたこともある。
- ^ 特に多かったのが郷里である福岡での7万2千、東京での3万人。
- ^ 広田自身は息子を通して、嘆願書は絶対に出してはいけないという声明を出した。
- ^ 東條英機の孫娘・東條由布子も「東條英機は不当な東京裁判の犠牲者であり、英霊として靖国神社に祀られるべき。分祀には絶対反対」と述べている。
- ^ 広田は閣議で「犠牲を多く出したる今日、斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認し難き」と述べている。175-176p(『支那事変戦争指導史』よりの引用)。
- ^ トラウトマン工作提示の際に、広田は戦争が継続される場合にはこの条件ははるかに加重されるであろうと強調した(「日独伊三国同盟の研究」85・86ページ)。
- ^ 長らく、「天満宮」の扁額が広田11歳の筆になるものと言い伝えられてきた。水鏡天満宮外の説明板には小学校1年生の時に「天満宮」の扁額を書いたと記されている。
- ^ 当時の宮内省は内閣から独立していた。
出典
- ^ 服部、13-14p
- ^ 服部、16p
- ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員3頁
- ^ 『第一高等学校一覧(自昭和16年至昭和17年)(附録)』(第一高等学校編、1941年)83頁
- ^ 『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)学士及卒業生姓名119頁
- ^ 服部、17p
- ^ 服部、17-19p
- ^ 服部、22-23p
- ^ 永松浅造『新日本の巨人を語る : 人間・広田弘毅(他三編)』(森田書房、1936年)34p
- ^ 服部龍二『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』中央公論新社、2008年6月1日、42頁。ISBN 978-4121019516。
- ^ 広田外相は玄洋社出身の硬骨漢『大阪毎日新聞』昭和8年9月15日(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p244 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 服部、75-80頁
- ^ 服部、93-94p
- ^ 服部、96-97p
- ^ 外務省『日中歴史共同研究』https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html 戸部良一「第2部第1章:満洲事変から日中戦争まで 」https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf
- ^ 服部龍二は天皇の発言をこの問題をふまえたものではないかとしている。服部、190-191p
- ^ 昭和19年10月6日『毎日新聞』7面「国事に尽くした90年、無官の国士逝く」広田弘毅
- ^ 服部、137-139p
- ^ 『官報』第3121号、昭和12年6月1日。
- ^ 服部、156-160p
- ^ 服部、161p
- ^ 服部、175p「北平大使館記録」よりの引用
- ^ 服部、190-191p
- ^ 服部、201-202p
- ^ 服部、204p(原田熊雄『西園寺公と政局』第八巻よりの引用)
- ^ 服部、
- ^ 服部、211-212p(昭和天皇の発言は『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』よりの引用)
- ^ 「泰へ同盟慶祝答礼使節 特派大使、広田弘毅氏 補佐に矢田部全権大使 近く出発」『大阪毎日新聞』1942年6月21日付。神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」収録
- ^ 服部、215p(『玄洋』14号、末永信夫『広田先生と浩々居時代の私』よりの引用)
- ^ 長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年、p225 - 227
- ^ 服部、225p(『昭和天皇独白禄 寺崎英成・御用係日記』よりの引用)
- ^ 米戦略爆撃調査団、近衛・木戸らを招致『朝日新聞』昭和20年11月22日(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p340 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 梨本宮・平沼・広田ら五十九人に逮捕命令『朝日新聞』昭和20年11月20日(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p341)
- ^ 服部、232-233p(『国際検察局尋問調書』第28巻よりの引用)
- ^ 『秘録東京裁判』中央公論社、93-97頁。
- ^ 服部、256-262p
- ^ アメリカ占領下の日本 第3巻 東京裁判 企画・制作:ウォークプロモーション NPO法人科学映像館
- ^ 服部、259-265p
- ^ 山崎晴一 『文藝春秋』昭和24年10月号 「鬼検事キーナン行状記」
- ^ 竹内正浩『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』(実業之日本社、2017年)p.57
- ^ “東京裁判で処刑された唯一の文官、広田弘毅元首相の孫・弘太郎さん語る 「評価は歴史がする」”. 産経新聞 (産経新聞社)
- ^ 服部、155p(石射猪太郎『外交官の一生』よりの引用)
- ^ 服部、194-195p(『猪木正道著作集』第四巻、岩見隆夫『陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治』よりの引用)
- ^ ベルト・レーリンク『レーリンク判事の東京裁判―歴史的証言と展望 』1996年
- ^ 『巣鴨日記』(「文藝春秋」昭和27年(1952年)8月号掲載)より。
- ^ “東条英機らA級戦犯の最期、克明に 教誨師が講演で語る(京都新聞)”. Yahoo!ニュース. 2019年12月23日閲覧。
- ^ 渡辺勝正『決断・命のビザ』大正出版、1996年、p258
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第8版』(人事興信所、1928年)ヒ67頁
- ^ 『人事興信録 第14版 下』(人事興信所、1943年)ヒ68頁
- ^ 北川晃二『黙してゆかむ 広田弘毅の生涯』(講談社、1975年)212-213頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 「広田弘毅特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11114445800
- ^ 『官報』第7076号「叙任及辞令」1907年2月2日。
- ^ a b 『官報』第2031号「叙任及辞令」1933年10月6日。
- ^ a b c d e f g h 『法廷証第108号: 廣田弘毅關スル人事局履歴書』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『官報』第3041号「叙任及辞令」1937年2月24日。
- ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ^ 『官報』第1846号「叙任及辞令」1918年9月27日。
- ^ 『官報』第4038号「叙任及辞令」1926年2月12日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 「谷正之外二十五名」 アジア歴史資料センター Ref.A10113476800
広田弘毅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:05 UTC 版)
杉原が尊敬していた外交官・政治家。元外務大臣。元貴族院議員。第32代内閣総理大臣。千畝の長男で『六千人の命のビザ』の英訳者である「弘樹」の名前は、広田「弘毅」にちなんだもの。ウクライナ出身のユダヤ系音楽家のレオ・シロタを庇護。レオの娘である ベアテ・シロタ・ゴードンのアメリカ留学のために米国大使館と交渉。ベアテは、戦後 GHQ民政局の一員として来日して、日本国憲法の人権項目の策定に携わり、女性の権利拡大に尽力。
※この「広田弘毅」の解説は、「杉原千畝」の解説の一部です。
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