ひろた‐こうき【広田弘毅】
広田弘毅 ひろた こうき
福岡県生まれ。外交官、政治家。父が石屋の養子となり、広田姓を名乗る。第一高等学校、東京帝国大学を卒業後、外務省に入る。大正12年(1923)欧米局長。その後、オランダ公使、ソ連大使等を歴任し、昭和8年(1933)斎藤内閣に内田外相の後任として入閣。岡田内閣では留任。11年(1936)3月、2・26事件後の組閣で首相に就任するが、翌年1月には総辞職した。同年貴族院議員となる。第1次近衛内閣で外相に就任。戦後、A級戦犯となり極東国際軍事裁判で文官としてはただ一人死刑となった。
キーワード | 外交官, 政治家, 首相 |
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広田弘毅
広田弘毅
広田弘毅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:05 UTC 版)
杉原が尊敬していた外交官・政治家。元外務大臣。元貴族院議員。第32代内閣総理大臣。千畝の長男で『六千人の命のビザ』の英訳者である「弘樹」の名前は、広田「弘毅」にちなんだもの。ウクライナ出身のユダヤ系音楽家のレオ・シロタを庇護。レオの娘である ベアテ・シロタ・ゴードンのアメリカ留学のために米国大使館と交渉。ベアテは、戦後 GHQ民政局の一員として来日して、日本国憲法の人権項目の策定に携わり、女性の権利拡大に尽力。
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