GHQ民政局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 08:48 UTC 版)
「チャールズ・L・ケーディス」の記事における「GHQ民政局」の解説
1945年、第二次世界大戦終結後に進駐軍の一員として来日。はじめGHQ民政局課長、やがて次長となり、局長コートニー・ホイットニーの下で日本の民主化を推し進めた。 1946年2月3日、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーは、日本国憲法のGHQ草案作成を民政局に指示した。ケーディスは条文の起草を行うため7つの委員会と各委員会を監督する運営委員会を設置することを提案した。ホイットニーは提案を受け入れ、2月4日の会議で1週間以内に草案を作成するように指示した。ケーディスら民政局員は昼夜を問わず作成作業に当たったが、局員の中に憲法学を学んだものが一人もいなかったため、作成に当たっては憲法研究会の「憲法草案要綱」の他、世界12か国の憲法を参考にしている。2月7日以降に各委員会が作成した試案は運営委員会に提出され、8日から9日にかけて運営委員会で会合が行われた後、10日に草案はホイットニーからマッカーサーに提出した。マッカーサーは一部の修正を指示した後、2月12日に「マッカーサー草案」として日本政府に提示した。 3月4日、ケーディスは国務大臣松本烝治が提示した日本政府案と説明書の英訳を行うが、日本政府案がマッカーサー草案と異なっていることに気付き、「日本政府案は受け入れられない」と激怒し松本と口論となった。松本は経済閣僚懇談会への出席を理由に退席したが、ケーディスは松本の助手である法制局第一部長・佐藤達夫を相手に口論を続けた。英訳作業を終えた後、ケーディスは日本側と憲法の最終案作成の作業に入り、32時間の議論を経た3月5日に最終案が確定し、翌6日に日本政府により最終案「憲法改正草案要綱」が公表された。その後、憲法改正草案要綱は衆議院・貴族院での手続きを経て、1947年5月3日に日本国憲法として施行された。 1948年、マッカーサーの命を受けてアメリカへ帰国。当時、大統領ハリー・S・トルーマンとGHQ最高司令官マッカーサーとの間では、対日政策を巡る主導権争いが激化していた。マッカーサーには、ケーディスを用いてアメリカ政府上層部における自らの支持層を拡大しようという意図があったと考えられるが失敗に終わり、1951年にトルーマンにより更迭され、アメリカへ帰国した。
※この「GHQ民政局」の解説は、「チャールズ・L・ケーディス」の解説の一部です。
「GHQ民政局」を含む「チャールズ・L・ケーディス」の記事については、「チャールズ・L・ケーディス」の概要を参照ください。
- GHQ民政局のページへのリンク