第2次、3次吉田内閣
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このときGHQ民政局による山崎首班工作事件が起こるも失敗。これを受けて吉田は民主自由党単独で第2次内閣を組織した。その直後に社会党などの野党は内閣不信任を提出、可決されたため、吉田は衆議院を解散した(馴れ合い解散)。第24回衆議院議員総選挙で民主自由党が大勝。戦後の日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。 1949年(昭和24年)3月、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー少将に「日本の共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動を暴露し、彼らの極悪な戦略と戦術に関して国民を啓発することによって、共産主義の悪と戦う手段として、私は、長い間、米議会の下院非米活動委員会をモデルにした「非日活動委員会」を設置することが望ましいと熟慮してきた。」なる書簡を送り、破壊活動防止法と公安調査庁、内閣調査室が、1952年(昭和27年)に、設置、施行されるきっかけを作る。アメリカでは当時、赤狩り旋風が吹き荒れていた。
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