GHQ占領下時代
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1945年、日本が第二次世界大戦に敗北すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本間接統治が開始された。日本で製作される映画はGHQの下部組織CIE(民間情報教育局)によって管理されることとなった。この管理体制は1952年まで続き、日本映画界において、初めて外国機関による管理と制御が実施された特異な期間となった。企画と脚本段階で英語に翻訳し、CIEで許可されたもののみ製作がなされた。例えば、黒澤明の『暁の脱走』(1950年)は当初、山口淑子(満映の李香蘭)主演の朝鮮人従軍慰安婦を描いた作品としていたが、数十回に及ぶCIEの検閲により、原形を留めぬ作品となってしまっている。完成したフィルムはCCD(民間検閲支隊)により二度目の検閲が行われた。また、この検閲は過去の映画作品に遡っても実施された。 また、占領政策の一環として戦争責任の問題は映画業界にも波及し、戦時中の映画製作において戦争協力者を追放すべしとの声が叫ばれ始めると、川喜多長政、根岸寛一、城戸四郎といった戦意高揚映画に携わった人物が1947年に映画界追放とされた。しかし他のジャンルにおける追及と同じく、映画業界においても戦争責任の所在は曖昧に処理され、上記の処置は1950年には解除されている。 戦後、最初に公開された映画は佐々木康による『そよかぜ』で、並木路子による主題歌『リンゴの唄』が大ヒットした。 CIEのデヴィッド・コンデによって1945年に発布された製作禁止リストにおいて、国家主義や愛国主義、自殺や仇討ち、残忍な暴力映画などが禁止項目となり、時代劇の製作は事実上不可能となった。この影響で時代劇を生業としていた俳優は現代劇に出演するようになる。片岡千恵蔵の『多羅尾伴内』、阪東妻三郎の『破れ太鼓』、稲垣浩の『手をつなぐ子等』、伊藤大輔の『王将』などがそれにあたる。 また、GHQ主導で勧められた民主主義礼讃作品としてプロパガンダ映画が多数製作された。その中で黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946年)、吉村公三郎の『安城家の舞踏会』(1947年)、今井正の『青い山脈』などに出演した原節子は西洋的な新時代の幕開けを象徴するスターとして国民的な人気を博した。佐々木康の『はたちの青春』(1946年)では日本映画最初のキスシーンが撮られた。 1945年11月16日、GHQは「非民主主義的映画排除方指令に関する覚書」を交付した。11月19日、超国家主義的・軍国主義的・封建主義的思想の映画236本の上映禁止・焼却指令を発表した。 1946年1月28日、GHQは「映画検閲に関する覚書」を出し、民間検閲課による検閲を開始。8月13日、記録映画『日本の悲劇』上映禁止を通告。
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