映画業界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 05:14 UTC 版)
「フェルナンド・ポー・ジュニア」の記事における「映画業界」の解説
1953年にはサン・ベダ・カレッジで初等教育を終了し、サン・セバスティアン・カレッジ(英語版)で中等教育を受けた。その後はマプア工業学院(英語版)とザ・イースト大学(英語版)で高等教育を受け、演劇コースで学んだ。父親のポー・シニアは35歳だった1951年に狂犬病のために死去しており、ポーは家族を養うために大学を中退した。1954年9月11日には祖父のロレンソ・ポーも死去した。 映画業界でメッセンジャーとして働いた後、ポー・ジュニアは俳優の道を歩み始めた。まずはエバーラスティング・ピクチャーズのスタントマンとして『Anak ni Palaris』に出演し、1957年の『Lo Waist Gang』で人気を得た。イニシャルからFPJとも呼ばれていたポー・ジュニアは、貧しく虐げられた人々を描いた映画に出演してスター俳優となった。またポーは、ロンワルド・レジェス(Ronwaldo Reyes)という偽名で9本の映画を監督している。レジェスは父からの祖母マルタの姓に由来している。ロンワルド・レジェス名義で監督した『Mga anghel na walang langit』はFAMAS賞で物語賞に選出されたが、選考委員は授賞式までレジェスが誰であるか知らなかった。 1961年にはFPJプロダクションを設立し、その後他の映画会社を設立した。1963年にはフィリピンの映画産業から金を奪ったビッグ・フォーと呼ばれるギャング組織に対して証言している。FAMAS賞(英語版)では1968年の『Mga Alabok sa Lupa』、1972年の『Asedillo』、1980年の『Durugin si Totoy Bato』、1984年の『Umpisahan mo...Tatapusin ko』、1987年の『Muslim .357』で計5回男優賞を受賞しており、これはジョセフ・エストラーダ、クリストファー・デ・レオン(英語版)、エディー・ガルシア(英語版)と並んで最多受賞記録である。
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