映画業界と禁酒法ビジネス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 18:12 UTC 版)
「ジョセフ・P・ケネディ」の記事における「映画業界と禁酒法ビジネス」の解説
1920年代後半、ジョーは株式取引で得た資産を当時の新興業界であった映画産業に投資し始めた。当時のハリウッドにはまだ大スタジオというのはなく、小さな映画会社が乱立している状況であった。そこに眼をつけたジョーは手始めに経営困難に陥っていたFBO(Film Booking Offices of America)という映画会社を150万ドルで買収した。1926年にはハリウッドに移り、本格的に映画会社の運営に乗り出した。さらに映画館チェーンを手にいれようと思い、KAO(Keith-Albee-Orpheum Theaters Corporation)を買い取った。さらにパテ・エクスチェンジ社という会社の顧問にも就任した。 1928年10月、彼は自らの持つFBOとKAOを合併させ、新たにRKO(Radio-Keith-Orpheum)を発足させた。その過程でジョーはRKOの株をつかってさらに稼いだといわれる。ジョーの「ビジネス」のやり方を示唆する以下のような事例がある。当時、ジョーはアレクサンダー・パンテイジス(Alexander Pantages)という男が経営していた映画館のチェーン、パンテイジス社を買収しようと話を持ちかけたが、すげなく断られた。その直後の1929年8月、パンテイジスはユーニス・プリングル(Eunice Pringle)なる女性を強姦しようとしたという罪で訴えられる。パンテイジスは濡れ衣であると言い張り、最終的に無罪を勝ち取るが、社会的な信用を失って、会社も結局ジョーのものになった。プリングルは死の床で、すべてはジョーに指示されてやった狂言だったと証言したという。 ハリウッドで、ジョーは当時の人気女優グロリア・スワンソンと浮名を流した。スワンソンは自身の映画制作会社の資金繰りに困っているときにジョーを紹介されたのだった。二人とも既婚者であったが、すぐに情事を重ねるようになり、やがてジョーは自らが製作にあたり、エリッヒ・フォン・シュトロハイム(Erich von Stroheim)を監督にたてて、スワンソンの主演映画『クイーン・ケリー』(Queen Kelly、1929年)を撮り始めた。しかし製作は途中で頓挫、制作費60万ドルが無駄になった。大作映画のプロデューサーとして歴史に名前を残したいというジョーの目論見は終わった。 彼はあきらめず、『侵入者』(The Trespasser、1929年)、『陽気な後家さん』(What a Widow! 1930年)とスワンソン映画の製作を続けたが、スワンソン自身がジョーに愛想を尽かし始めていた。そのきっかけはスワンソンが自分の口座から引き落とした金でジョーが人にプレゼントをしているのに気がついたことだった。さらにジョーは『クイーン・ケリー』の借金をスワンソンが負うような手続きすらしていた。二人の関係は終わり、ジョーもハリウッド・ビジネスから手を引いた。 ジョーが禁酒法時代にマフィアと組んで酒類の密輸で稼いでいたことは当時から有名な話であった。秘密裏に行われていたため、明白な証拠はないものの、1920年代に資産が増えている理由が非合法ビジネス抜きでは説明できないことや、マフィアを含む多くの証言からほぼ間違いない。たとえばフランク・コステロは死の直前に『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者ピーター・マーズに若いころ、ジョーと組んで不法な酒類を販売したと打ち明けている。 後に禁酒法が廃止されると、ジョーはサマセット社(Somerset Importers)という会社を立ち上げて、ジンとスコッチの販売網を独占し、再び大もうけした。このときのパートナーはルーズベルト大統領の息子ジェームズ・ルーズベルト(James Roosevelt)であった。ジョーはもうけをレストランやビルといった不動産に投資していった。ジョーが買った不動産の中でもっとも有名なものはシカゴのマーチャンダイズ・マート(Merchandise Mart)ビルであり、同ビルはケネディ家のシカゴでの拠点となった。
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