映画業界への参入
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1906年にコンチネンタル・ファッション・カンパニーを退職し、シカゴでニッケルオデオンの盛況ぶりを見て興行業を始める。レムリはトーマス・エジソンが映画配給の独占を企図したモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニーへの抵抗を始め、メアリー・ピックフォードやフローレンス・ローレンスなどの俳優の宣伝を手掛けて収益力を高め、独立企業としての力を蓄えていった。妻の死後、レムリはニューヨークに移住して1909年には全米一のエクスチェンジ業者(→スタジオ・システム)レムリ・フィルム・サービスを設立し映画配給を始めた。次いで映画製作会社インディペンデント・ムービング・ピクチャー(英語版)を設立した。 1912年4月30日に映画会社8社と合併してユニバーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(ユニバーサル映画)を設立し、社長に就任した。レムリは「映画の都」と呼ばれていたニュージャージー州フォートリーに新たに映画スタジオを設置した。1915年にはカリフォルニア州サンフェルナンド・バレーにある230エーカーの大丘陵地帯に総合映画スタジオ都市(ユニバーサル・シティ)を開設している。オープンの際には、かつての仇敵エジソンが照明や撮影機材を手がけたという。アーヴィング・タルバーグやハリー・コーンは当初ユニバーサル映画でレムリの部下として働いていた。 レムリはカリフォルニア州ビバリーヒルズに移住し、かつてトーマス・H・インスが暮らしていた住居を買い取り家族と共に生活の拠点とした。また、ニューヨークにも大きなアパートを所有し、子供たちのために維持していた。
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