画業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 01:02 UTC 版)
12歳の頃、父の友人で狩野派の加藤文麗に学び、18歳の頃に中山高陽の弟子渡辺玄対に師事した。20歳のとき文麗が歿したので北山寒巌につき、北宋画を修めた。鈴木芙蓉にも学んだとされるが確かではない。その後も狩野光定から狩野派を学び、大和絵では古土佐、琳派、円山派、四条派などを、さらに朝鮮画、西洋画も学んだ。26歳の時長崎旅行を企て、大坂の木村兼葭堂に立ち寄り、釧雲泉より正式な南画の指南を受けた。木村蒹葭堂の死後、その死を悼み、遺族に肖像画を贈っている。長崎に着いてからは張秋穀に画法を習い、1か月余り滞在した。古画の模写と写生を基礎にし、諸派を折衷し南北合体の画風を目指した。その画域は山水画、花鳥画、人物画、仏画にまで及び、画様の幅も広く、「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風を確立し、後に関東南画壇の泰斗となった。
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