映画監督に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 14:18 UTC 版)
1908年(明治41年)、千本座を活動写真興行に貸していた縁で、横田商会の横田永之助から映画製作を依頼される。省三は横田よりカメラとフィルムを借り受け、『本能寺合戦』を撮影。中村福之助や嵐璃徳ら千本座の俳優を起用し、真如堂の境内で撮影を行った。続けて横田の請負で『菅原伝授手習鑑』『明烏夢の泡雪』『児島高徳誉の桜』『安達原三段目袖萩祭文の場』『桜田騒動血染雪』を撮っているが、1本30円での請負ではやり切れなかったため、この5本限りで一旦映画製作を停止している。 1909年(明治42年)、5ヶ月ぶりに映画を製作し、『碁盤忠信 源氏礎』を撮る。同作にはこの年に千本座の座頭となった尾上松之助を起用し、松之助とのコンビ2作目の『石山軍記』では睨みをきかせて大きく見得を切る松之助の演技が好評を呼び、以来派手な立ち回りを得意とした松之助は「目玉の松ちゃん」と呼ばれて爆発的な人気を得た。 省三は12年間に渡り、横田商会と日活の2社で200本以上の松之助主演の時代劇を撮っていった。いずれも歌舞伎、講談、立川文庫から題材をとったものだが、編集技術を身につけた牧野がトリック撮影を駆使して撮った忍術映画なども多く作り、子供たちからも熱狂的に支持された。1912年(大正元年)に横田商会と他の3社とが合併して設立された日活では、関西撮影所の所長に就任した。
※この「映画監督に」の解説は、「牧野省三」の解説の一部です。
「映画監督に」を含む「牧野省三」の記事については、「牧野省三」の概要を参照ください。
映画監督に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 00:05 UTC 版)
1935年(昭和5年)4月、京都のJ.O.スタヂオの入社試験を合格して入社。500人近くの応募者の中から選ばれたのは今井と京大卒の3人のみだった。初任給は50円、当時の同僚に市川崑と岸松雄がいた。伊丹万作監督の『新しき土』で初めてロケハンに参加。石田民三監督の『花火の街』でチーフ助監督につき、中川信夫監督の『日本一の岡ッ引』ではスクリプターを担当、ほか志波西果、並木鏡太郎、渡辺邦男監督に1作ずつ助監督についた。 1937年(昭和12年)、J.O.スタヂオは合併で東宝映画京都撮影所となったが、所長の渾大防五郎に抜擢されて入社2年目で監督昇進を指名される。異例のスピード出世となった。処女作の『沼津兵学校』に取り掛かるが、出演俳優が兵役に取られるなどして完成が遅れ、2年後の1939年(昭和14年)に公開された。陸軍少将飯塚国五郎の実話を基にした『われらが教官』、井伏鱒二原作の『多甚古村』、石川達三原作の『結婚の生態』などと作品が続くが、いずれも成功作とはいえなかった。1943年(昭和18年)、朝鮮の国境警備隊と抗日ゲリラとの戦いを描いた『望楼の決死隊』を監督。西部劇さながらのアクションシーンを取り入れ、入念に作られたアクション映画として評判となったが、植民地支配を正当化する軍国主義映画のため、マルクス主義者の今井としてはマイナスになる作品だった。同年、教育召集のため麻布の歩兵第1連隊に入隊、3ヶ月で除隊した。
※この「映画監督に」の解説は、「今井正」の解説の一部です。
「映画監督に」を含む「今井正」の記事については、「今井正」の概要を参照ください。
- 映画監督にのページへのリンク