映画監督としての経歴
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「ビートたけし」の記事における「映画監督としての経歴」の解説
『その男、凶暴につき』(1989年)は、監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化を予定し、配給の松竹は両者の間で交渉を進めたが、スケジュールや条件で合致せず、深作が辞退した。そこで松竹は人物的魅力と話題性から、たけし(以下、映画の項目では映画監督での活動名(本名)での「北野」で表記)に監督を依頼したところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用された。映画監督・北野武としてのデビュー作『その男、凶暴につき』は、1989年に予定通り公開された。この時のことを後年関根潤三の著書の推薦文で「(映画監督について)あんなに大変な仕事はあるのかと思った。」と述べている。 その後、1990年に公開された監督2作目となる『3-4X10月』からは脚本も兼任し、映画監督としての本格的な活動を開始する。興行的成功は中々出なかったが、黒澤明や淀川長治、蓮實重彦といった日本映画の重鎮からは作風を高く評価される。また、1993年の『ソナチネ』ではカンヌ国際映画祭「ある視点」部門やロンドン映画祭に招待され、海外でも高い評価を獲得する。 1996年には『キッズ・リターン』を発表。バイク事故からの復活を印象付け、カンヌ国際映画祭監督週間部門にも招待される。 1997年、映画『HANA-BI』が、第54回ヴェネツィア国際映画祭で日本作品として40年ぶりとなる金獅子賞を受賞した。発表直後、たけしは「異分野出身者でも大きな賞を取れると示すことができ、これから映画を目指す者に刺激になったと思う」と語った。授賞式では「今度またイタリアと組んでどこか攻めよう」「Let's try again with Italia and go to some country to war」と日英両語でスピーチ。帰国時の記者会見で、現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して、笑いをとった。 第52回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式参加した映画『菊次郎の夏』で、約5分間のスタンディングオベーションを受けた。 2003年には『座頭市』が第60回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門に出品され、監督賞にあたる銀獅子賞を受賞。更に北米最大の映画祭であるトロント国際映画祭でも最高賞にあたる観客賞を日本映画として初めて受賞し、北野映画としては異例となる国内外でのヒットを記録した。 2005年4月、フランスの『カイエ・デュ・シネマ』創刊600号記念号の特別編集長を務める。カイエ・デュ・シネマは300号から100号毎に映画人を編集長に招いて記念号を発行しており、過去に記念号の編集長を務めた映画監督は、ジャン=リュック・ゴダール(300号)、ヴィム・ヴェンダース(400号)、マーチン・スコセッシ(500号)などがいる。 2005年4月、東京芸術大学で新設された大学院映像研究科の特別教授および映画専攻長に就任(〜2008年。なお、監督領域の教授は北野と黒沢清の2名)。北野大も淑徳大学教授であったので、兄弟で教授となった。 2007年5月、カンヌ国際映画祭60周年特別記念企画「To Each His Own Cinema」(それぞれのシネマ)に世界5大陸25ヶ国から選出された35名の著名な映画監督の中で唯一の日本人として名を連ねた。 2007年8月、第64回ヴェネツィア国際映画祭にて、たけしの映画監督作『監督・ばんざい!』に基づき「監督・ばんざい!賞」が新設され、表彰式に出席した。 2008年6月19日、第30回モスクワ国際映画祭で「特別功労賞」 (Life-time Achievement Award) を受賞。2003年の新藤兼人に次ぐ2人目の日本人受賞者となった。20日の会見では「ロシアの人は自分(北野)を過大評価している」「数々の芸術家が出ているロシアで表彰されるのは恥ずかしい」と語った。 2010年3月9日、フランス芸術文化勲章の一つであるコマンドゥール章を受章。13日の帰国会見では勲章の披露の前に、自身が作った「バンクーバー」と書かれた金メダルを出すボケを行い、笑いをとった。 2011年秋公開予定だった『アウトレイジ2』について「宮城県」でクランクインの準備をしていたら「東日本大震災」に遭遇しロケが取り止めとなり「6000万円以上損害が出た」と語っている。なお『アウトレイジ2』は、舞台を神戸市に移して『アウトレイジ ビヨンド』として、2012年10月6日に公開。 2016年、アカデミー賞を主催する米映画芸術科学アカデミーよりライター部門での会員候補に選定された。
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映画監督としての経歴
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「ゴードン・パークス」の記事における「映画監督としての経歴」の解説
1950年代に、パークスは様々なハリウッドの作品でコンサルタントとして仕事をし、後にテレビ局NETから仕事を受け、一連の黒人のゲットーの生活のドキュメンタリーを監督した。 1960年代からパークスは文学に手を広げ、自身の写真を挿入したいくつかの詩集と、全3巻の伝記『The Learning Tree』(1963年)を書いた。 1969年、パークスは自伝小説『The Learning Tree』の映画化で、ハリウッドで最初のメジャーな黒人の監督になった。パークスは映画の音楽の楽譜も制作し、映画脚本を書いた。 1971年のパークス監督、リチャード・ラウンドトゥリー主演の探偵映画、『黒いジャガー』(原題Shaft)は、後にブラックスプロイテーション映画と称される一連の映画を量産した大ヒットになった。超クールな革服をまとった黒人の私立探偵が、ハーレムの詐欺師の誘拐された娘を見つけるために雇われた…というパークスの設定のセンスは『黒いジャガー』で確認された。 1972年には主人公が敵対するギャングの詐欺師の抗争に巻き込まれる続編『黒いジャガー/シャフト旋風』(原題:Shaft's Big Score)を監督した。パークスの他の監督作品には、『The Super Cops』(1974年)、ブルースミュージシャンのレッドベリーの伝記映画『Leadbelly』(1976年)がある。 1980年代、彼はいくつかのテレビ映画と、バレエ『Martin』の音楽と台本を制作した。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアに捧げられたこのバレエは、1989年にワシントンD.C.で初演され、1990年のキング牧師の誕生日に全国放送のテレビで放映された。
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