映画界追放とは? わかりやすく解説

映画界追放

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 11:16 UTC 版)

田宮二郎」の記事における「映画界追放」の解説

1968年昭和43年)、今井正監督映画不信のとき』(有吉佐和子原作)の宣伝ポスター原案)において、主役130シーン94シーン出演)の田宮の名が4番扱いになっていた。その序列は、若尾文子大映看板女優)がアタマ2番目が加賀まりこ松竹専属女優田宮より年下でありキャリア後輩)、トメ最後)が岡田茉莉子東宝松竹活躍後、当時独立系映画中心に出演)で、田宮トメとなっていた。いくつも主演シリーズ持っていた田宮誰が見て大映現代劇トップ男優であり、彼にとってこの序列譲れない大問であった田宮撮影所長に抗議したが、「この作品女性映画として売りたいからこうなった。私の首にかけてもこの序列変えることはない」と断られその場副社長永田秀雅(永田雅一息子)に電話。すると「役者ごときが注文をつけることではない」と叱責され再び却下されたことからフィクサーとさえ言われる永田雅一対抗するためか、右翼許斐氏利伴い永田雅一直談判する。すると「主役のお前がアタマ書かれるのが当たり前や」となった。しかし「首をかけても撮影所長に言われたのだから、俳優の私が辞める(か所長辞めるしかない」と田宮が言うに及び、雅一は「おい、思い上がるのもいい加減にしろ。お前は横綱・大関クラス役者だと思っているんだろうが、まだ三役クラス役者だ。人事口を出すな」と憤慨結果的に刷り直したポスター序列希望通り田宮トップとなったが、雅一は契約残したまま、田宮解雇した。これにより、ただでさえスター不足で経営難大映はますます屋台骨が傾くことになった記者会見では記者から「田宮辞めさせて興行的に困らないか」との声が社長に飛んだ。しかし永田は「失礼な、それほど大物じゃない」と反論、さらに五社協定持ち出し他社映画にもテレビドラマにも田宮使わないように通達した。このため田宮大きな転換期を迎えることとなり、一部マスメディアではこの大映解雇が「田宮人生歯車狂い始めたきっかけ」とも言われている。

※この「映画界追放」の解説は、「田宮二郎」の解説の一部です。
「映画界追放」を含む「田宮二郎」の記事については、「田宮二郎」の概要を参照ください。

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