映画界入り:早川雪洲との結婚
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「青木鶴子」の記事における「映画界入り:早川雪洲との結婚」の解説
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} トーマス・H・インス(1919年)。 早川雪洲(1918年)。 イーガン・ドラマティック・スクールに入学した鶴子は、葬儀会社の隣の日当たりの悪い部屋に下宿した。貯金はわずかしかなく、年雄が遺した20枚ほどの絵を売って学費に充て、生活費は週5ドルに切り詰めた。鶴子は1913年に演劇学校に通っていた時、ハリウッドにも顔が利いたルイーズからコメディアンのフレッド・メイス(英語版)を紹介され、それがきっかけでメイス主演のコメディ映画に脇役で出演し、次いでマジェスティック社(英語版)作品『ツルさんの誓い(英語版)』(1913年)に主演した。この作品で鶴子はアメリカ人と恋に落ちる日本人女性のおツルさんを演じ、映画業界誌『ムービング・ピクチャー・ワールド(英語版)』は鶴子の役柄について「蝶々夫人のように可憐で魅力的」と評した。また、鶴子はこの作品の宣伝の形で、1913年11月に映画業界誌『リール・ライフ』の表紙を飾った。 1913年の暮れ、鶴子はハリウッドの映画会社ニューヨーク・モーション・ピクチャー・カンパニー(英語版)(NYMPC)の製作者のトーマス・H・インスと契約を結んだ。第一次世界大戦前のアメリカ白人社会では、日本や日本人が神秘的でエキゾチックな対象として関心を持たれていたが、これに注目したインスは日本を主題にした映画を作るため、サンタモニカ近くのインスヴィルと呼ばれる自前の撮影所に日本人村のオープンセットを作り、日本人俳優を集めていた。インスにとって、英語を上手く話せる数少ない日本人俳優だった鶴子は魅力的な人材であり、『ツルさんの誓い』を見て抜擢を決めたという。鶴子の月給は300ドルで、翌1914年には月給350ドルに上がった。鶴子のほかにインスのもとに集まった日本人俳優には、トーマス・栗原やヘンリー・小谷、そして後に夫となる早川雪洲がいた。 鶴子と雪洲の出会いの経緯については、さまざまな説で伝えられている。雪洲によると、1913年に素人劇団の俳優だった雪洲が舞台『タイフーン』の上演を企画し、共演者を探そうとイーガン・ドラマティック・スクールを訪れた際に鶴子と知り合い、仲良くなったという。中川や野上英之によると、2人が『タイフーン』の公演以前から在米日本人同士またはロサンゼルスの演劇仲間たちとの親睦会を通じて知り合ったとする説もあるという。鶴子自身も『婦人公論』1931年1月号で、年雄の生前(中川は、鶴子が21歳頃のことだと推定している)に雪洲が彼の絵を見ようと度々出入りしていて、その時分から友達になったと述べている。また、鶴子は雪洲の映画界入りのきっかけを作った人物とされている。鶴子はインスに『タイフーン』の芝居を観るように勧め、実際にこれを見たインスは雪洲を気に入り、映画界入りさせたといわれている。 インスの日本物映画の最初の作品は、将軍家の騒動を描く短編映画の『おミミさん(英語版)』(1914年)で、鶴子がタイトル・ロールで主演し、雪洲が相手役で映画デビューを飾った。鶴子は日本人俳優グループのトップ女優として日本物映画に主演し、何度も雪洲と共演した。その1本の『神々の怒り』(1914年)は桜島の大正大噴火が題材の長編映画で、鶴子は雪洲演じる旧家の当主の娘で、アメリカ人船員と恋に落ちるトヤさんを演じた。この作品の宣伝のために、鶴子は桜島出身で噴火により家族を失ったという嘘の経歴で紹介された。また、鶴子はインスの数本の西部劇でインディアンを演じている。 鶴子は映画で共演が続く雪洲と急速に親しくなり、2人はどちらからともなく距離を縮めていった。1914年4月14日、2人はロサンゼルス郡役所に婚姻届を提出し、5月1日に結婚式を挙げた。鶴子によると、挙式時は雪洲の主演舞台の映画化で、鶴子も出演した『タイフーン(英語版)』(1914年)の撮影中だったが、2人はインスに5日間だけ休暇をもらい、雪洲が全財産をはたいて購入した自動車に乗ってサンディエゴへ新婚旅行に行き、年雄の墓参りもしたが、その帰りは車が故障したり、所持金を使い果たしてホテル代が払えなくなったりして散々だったといい、手記で「とんだ珍婚旅行になった」と述べている。なお、2人が正式に日本へ婚姻を届け出たのは1920年のことである。
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