映画界引退後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 02:19 UTC 版)
「コリンヌ・グリフィス」の記事における「映画界引退後」の解説
映画界から引退後、1934年に夫モロスコと離婚。2年後、実業家でワシントン・レッドスキンズのオーナーであるジョージ・プレストン・マーシャル(英語版)と結婚。1941年12月、夫婦はパメラとシンシアという2人の娘を養子に迎えた。マーシャルとの新婚時代に、最も有名なアメリカンフットボールの応援歌の1つとなったレッドスキンズの「Hail to the Redskins」の歌詞を書いた。 1940年代、グリフィスはロサンゼルス地区の不動産への投資を開始する。カリフォルニア州ビバリーヒルズのウィルシャー・ブルバードとサウス・ビバリー・ドライブの交差点すべての四隅に建つ4棟の商業ビル建設に資金を提供。それぞれが彼女にちなんで名付けられた建物は実入りが良いことが判明し、1950年には250万ドルのオファーを断っている。同年、フロリダで開催された全国不動産協会総会で講演をした。「私はビバリーヒルズで売地となっている空き地を見ることが好きでした」と彼女は回顧した。「それらはその地域の美しい家々にとても近く、いつの日かこの商業区がこれら富裕な不動産の大きな購買力に成長することを感じざるを得ませんでした。」 「私は男性の助けを借りずにお金を得ました。自分でお金を稼げるほどの充分な賢さを持つ女性は、人生に対するより広範囲の理解、夫からの新たな敬意、すべての妻の心を悩ませている使い古された策略に頼らずに済む銀行口座を得るでしょう。」 –女性の財政自治団体にて 1950年代から不動産事業に加え、議会が所得税を賦課徴収する権限を承認したアメリカ合衆国憲法修正第16条の廃止を声高に支持した。その後10年間に亘り、このテーマについて約500回のスピーチを行なった。彼女はこのテーマへの献身について「私たちには浪費、収賄、汚職に回せるものが無いので、他の税金に回せるものもありません。もし連邦政府が年間400億ドルに及ぶ浪費の一部でも排斥すれば...…政府が所得税を必要としないことをドルとセントで証明することができます。」とコメントし、また、自身の経済的自立を求める女性を支援するための講演を行なった。 不動産の経歴に加え、2冊のベストセラー、『My Life with the Redskins』(1947年)、彼女の成長とテクサーカナでの家族の生活を記した回顧録『Papa's Delicate Condition』(1952年)など11冊の本を著した有名な著作家でもあった。3冊目の著書『Eggs I Have Known』(1955年)はレシピ本である。1958年、マーシャルと離婚。1960年、映画界への貢献が認められ、ヴァイン・ストリート1560のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星型プレートが設置された。自身の骨董品への関心を記したノンフィクションである4冊目の著書『Antiques I Have Known』を出版。 1962年、低予算のメロドラマ『Paradise Alley』で銀幕に復帰、封切館は乏しかったが最後の映画出演として記録された。同年2冊の本を出した - 短編小説集『Hollywood Stories』と、所得課税に反対する主張を伴う『Taxation Without Representation—or, Your Money Went That-a-Way』である。翌年、彼女の回顧録『Papa's Delicate Condition』は、ジャッキー・グリーソンを主演に据えPapa's Delicate Condition(同タイトル)で映画化された(邦題『パパは王様』)。
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