映画界復帰
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戦後は新東宝からカムバック。『江戸群盗伝』『修羅桜』などに主演。1953年、新東宝系列の芸能事務所「綜芸プロ」に所属したが、新東宝では端役同様の扱いからの出直しを余儀なくされていた。そんな中、松竹では、大映との契約が切れ、松竹時代劇を支えていた阪東妻三郎が死去した。時代劇のチーフ監督、大曾根辰夫は近衛を気に入り、スカウトする。1954年には正式に松竹に移籍、時代劇で悪役筆頭や主役と同等の立ち役を務め、阪妻亡き後の松竹時代劇の屋台骨を高田浩吉と支えることとなった。1957年の『まだら頭巾剣を抜けば 乱れ白菊』で本格的に主演を務め、近衛を主演スターとして売り出そうとなった矢先の1959年、松竹は時代劇映画制作からの撤退を発表した。 邦画会社で観客動員No.1となっていた東映は、社長の大川博が「日本映画の収入の半分は東映がいただく」と豪語。その一方でテレビの普及で動員数は減少傾向を見せ始める。1959年、1社による「2系統2本立て配給」を目指し、前年に社内で発足していた「東映テレビ映画」が「第二東映」と改称され発足。役者不足を補うため、同じ松竹の高田浩吉や東宝の鶴田浩二らと共に東映に引き抜かれ、1960年、東映に移籍。同時期に移籍した品川隆二、黒川弥太郎とともに第二東映の看板スターとして活躍する。しかし第二東映は「東映」の名を冠しながらも片岡千恵蔵、市川右太衛門クラスのスターは出演できないルールがあり、興業収入はおよそ本家には及ばなかった。そこで現代劇に作品を絞り「ニュー東映」と名称を変更するが、状況は変わらず、1961年、劇場用映画から撤退、近衛はじめ所属俳優は東映本社所属となる。その後、その主演作は白黒作品ばかりではあったが、ヒーロー然としないニヒルな浪人役など阪東妻三郎的ともいえる役柄を得意とし、人気俳優となっていく。同年、長男の弘樹も東映で主演デビューした。『柳生武芸帳』シリーズ(1961年 - 1963年)で主役の柳生十兵衛を演じる。剣戟スターとしては器用ではないが異様な迫力が人気を呼んだ。また速い剣捌きで迫力ある殺陣を魅せるため、通常より柄(つか)の長い刀を使用したのも近衛の発案によるものであった。 長いブランクからの映画界復帰、移籍だったため、既に確固としたスターシステムを確立していた東映では、"よそもん"、"外様"扱いされ、二線級スターに扱われた(大作映画では準主役や敵役筆頭などの扱いで、主演がほとんどない)が、この事について、フリーライター・永田哲朗は著書『殺陣 チャンバラ映画史』(現代教養文庫)で「昭和三十年代から四十二、三年ごろまで、東映、大映、松竹など、どの社の殺陣師に聞いても『一番アブラが乗っているのは近衛だろう』という答えが返ってきたぐらいで、私は『剣豪スター番付』を作ると必ず近衛を横綱に置いた」「電光石火のスピードと流れるような美しいフォームは他の追随を許さないほどだ」と絶賛。「東映は近衛ほどの逸材を擁しながら、二線級監督作ばかりに起用し、これを生かすことができなかった」と、近衛の処遇を惜しんでいる。
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