外相として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/19 11:39 UTC 版)
「アンドレアス・ペーター・フォン・ベルンシュトルフ」の記事における「外相として」の解説
1784年4月、ベルンシュトルフは再び外務大臣に任命された。この出来事はベルンシュトルフの政治経歴における黄金期を示し、彼は1797年に死去するまで実質的にはデンマークの首相であり、1788年から1789年にかけては短期間内相も務めた。 スカンディナヴィアの外交では親露派でありながら慎重な政策を採用、スウェーデンとの紛争を回避した。1788年から1790年までの第一次ロシア・スウェーデン戦争ではロシアとの同盟に従い1788年に一時参戦したが、戦闘のないまま離脱して、イギリスとプロイセン王国への刺激を回避することに成功した。その後はロシアとの同盟を緩めてスウェーデンとの関係を改善しようとし、1794年3月17日にスウェーデンと中立条約を締結した。 同時期の課題にはフランス革命とそれを起因とするフランス革命戦争がある。ベルンシュトルフは厳正中立を崩さず、デンマークの貿易を守るために大国の間で均衡を維持した。彼は国際法を守りつつ挑発を避け、フランスとイギリスとも紛争があったもの柔軟に対応してデンマーク商人の利益を守った。彼はフランスへの介入も護送船団の派遣も拒否して、諸国からの尊重を勝ち取った。 このようにして、ベルンシュトルフの外交政策は成功を収めたが、彼は1797年6月21日に死去した。ベルンシュトルフの死去はデンマーク国内で惨禍として受け入れられた。
※この「外相として」の解説は、「アンドレアス・ペーター・フォン・ベルンシュトルフ」の解説の一部です。
「外相として」を含む「アンドレアス・ペーター・フォン・ベルンシュトルフ」の記事については、「アンドレアス・ペーター・フォン・ベルンシュトルフ」の概要を参照ください。
- 外相としてのページへのリンク