外相時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 05:57 UTC 版)
その後、第2次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任。 明治27年(1894年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結。幕末以来の不平等条約である領事裁判権の撤廃に成功する。 以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ帝国、イタリア王国、フランスなどとも同様に条約を改正した。陸奥が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(領事裁判権の撤廃)を成し遂げた。同年8月、子爵を叙爵する。一方、同年5月に朝鮮で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵。7月23日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始。イギリス、ロシアの中立化にも成功した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる参謀次長川上操六中将の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。 戦勝後は伊藤博文とともに全権として明治28年(1895年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。 日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。これ以前より陸奥は肺結核を患っており、三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議が行われたのは、既に兵庫県舞子で療養生活に入っていた陸奥の病床においてであった。明治29年(1896年)、外務大臣を辞し、大磯別邸(聴漁荘)やハワイにて療養生活を送る。このあいだ、雑誌『世界之日本』を発刊している。 明治30年(1897年)8月24日、肺結核のため西ヶ原の陸奥邸で死去。享年54(満53歳没)。墓所は大阪市天王寺区夕陽丘町にあったが、昭和28年(1953年)に鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺に改葬された。 明治40年(1907年)、条約改正や日清戦争の難局打開に関する陸奥の功績を讃えて、外務省に彼の像が建立された。戦時中に金属回収により供出されたが、昭和41年(1966年)に再建された。
※この「外相時代」の解説は、「陸奥宗光」の解説の一部です。
「外相時代」を含む「陸奥宗光」の記事については、「陸奥宗光」の概要を参照ください。
外相時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 14:27 UTC 版)
「テオフィル・デルカッセ」の記事における「外相時代」の解説
1898年6月、第2次ブリソン(fr:Henri Brisson) 内閣が成立すると、アノトー (fr:Gabriel Hanotaux) を継いで外相に就任。以後、ルソー (fr:René Waldeck-Rousseau) 、コンベ (fr:Émile Combes) およびルーヴィエ (fr:Maurice Rouvier) の歴代首相の下、7年にわたってその地位を保持した。
※この「外相時代」の解説は、「テオフィル・デルカッセ」の解説の一部です。
「外相時代」を含む「テオフィル・デルカッセ」の記事については、「テオフィル・デルカッセ」の概要を参照ください。
外相時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 18:05 UTC 版)
「サロメ・ズラビシュヴィリ」の記事における「外相時代」の解説
2004年、ズラビシュヴィリは大統領のミヘイル・サアカシュヴィリから外相に指名され、3月18日に任官した。ジョージアの外相に女性が就任したのは初めてであった。外相として、ズラビシュヴィリはジョージア国内からロシアの軍事基地を撤収させるための交渉に従事し、2005年5月19日にロシアの外相セルゲイ・ラブロフと協定を締結した。また、北大西洋条約機構 (NATO) への接近や欧州への統合を図るため、ウクライナやリトアニア、ラトビア、エストニア、ルーマニア、ブルガリア、チェコ、ポーランドなどと「新ジョージア友好国グループ」 (New Group of Friends of Georgia) という枠組みを立ち上げた。 しかし、国会議員との争いが続いたため、2005年10月19日に首相のズラブ・ノガイデリから外相を更迭された。ジョージアの大使の多くもズラビシュヴィリを痛烈に批判した。また、更迭が発表される直前、ズラビシュヴィリはフランス外務省を退職し、ジョージアで政界に入ると表明した。外相就任後も、ズラビシュヴィリはフランス外務省から給与を支給されていた。
※この「外相時代」の解説は、「サロメ・ズラビシュヴィリ」の解説の一部です。
「外相時代」を含む「サロメ・ズラビシュヴィリ」の記事については、「サロメ・ズラビシュヴィリ」の概要を参照ください。
外相時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 10:06 UTC 版)
「ヴォロディームィル・オフルィーズコ」の記事における「外相時代」の解説
2007年、大統領提案により外相に就任。2008年3月24日 - 26日にかけて訪日し、第2回の日・ウクライナ協力委員会を開催。当時の高村正彦外相と会談後、共同声明を発表している。 新欧米派のヴィクトル・ユシチェンコ大統領に近い人物だった。黒海海域をめぐる隣国ルーマニアとの領有紛争では国際法廷で敗訴したとして批判を招いていた。親露派の地域党とウクライナ共産党から外相解任を求める動議が提出されると、これにユーリヤ・ティモシェンコ首相率いる「ティモシェンコ・ブロック」の一部が合流、2009年3月3日に解任が決議された。 ティモシェンコ首相はこの件に関して「このような危機的状況になかったら、彼はもっと早くに解任されていただろう」とコメント。一方のユシチェンコ大統領は、「タイミングも悪く、正当性の無い解任だ」とオフルィーズコ外相を擁護する姿勢を見せた。
※この「外相時代」の解説は、「ヴォロディームィル・オフルィーズコ」の解説の一部です。
「外相時代」を含む「ヴォロディームィル・オフルィーズコ」の記事については、「ヴォロディームィル・オフルィーズコ」の概要を参照ください。
- 外相時代のページへのリンク