池田側近として
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1952年(昭和27年)、大蔵省時代の上司だった池田勇人の誘いを受け、9月5日に大蔵省を退職。10月1日に行われた第25回衆議院議員総選挙に旧香川2区から自由党公認で立候補し初当選。以後、連続当選11回。 1957年(昭和32年)、池田勇人が宏池会を発足させると、当然のごとく池田のもとに馳せ参じた。。大蔵省の先輩である前尾繁三郎をヘッドとする大蔵省出身者の池田の政策ブレーンとなり、宮澤喜一や黒金泰美らとは、池田勇人側近の「秘書官トリオ」と呼ばれる。1960年(昭和35年)に第1次池田内閣で内閣官房長官に就任。「低姿勢」をアピールする同内閣の名官房長官と評された。第2次池田内閣・第2次池田内閣第1次改造内閣でも官房長官を務め、続く第2次池田内閣第2次改造内閣で外務大臣に就任した。戦前は中国勤務を経験し占領時代はアメリカを旅行した経験から外交を身近に感じていた大平は外相就任を望んでいた。外相時代は韓国との国交正常化交渉を巡って、金鍾泌中央情報部長との間で最大の懸案だった請求権問題で合意(いわゆる「金・大平メモ」1962年11月12日)、日韓交渉で最も大きな役割を果たした政治家である。一方で日中関係の進展を念頭に置いていた池田との離反という代償も伴った。中国大陸との関係に関しては、経済的、地政学的、また極東の政治的現実の観点から、「長崎国旗事件」によって途絶えた日中関係を現実的な重大な課題として受け止め、前向きな姿勢で対中関係の改善に取り組んだ。アメリカが主導する「中国封じ込め」政策に苦しみつつも、日中経済貿易関係の拡大を徹底して追求した。LT貿易の成立、貿易連絡事務所の相互設置と新聞記者交換の実現等、日中関係はこれまでに見られないほど進展した。
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