大蔵省時代
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若槻は大蔵省に入り、主税局長、次官を歴任する。この間、帝大時代の師である同郷の梅謙次郎のもとで、和仏法律学校・法政大学の民法・租税法講師を務め、政界入り後も理事や顧問に就任している。大正元年(1912年)、第3次桂内閣で大蔵大臣、大正3年(1914年)から同4年(1915年)まで第2次大隈内閣で再度大蔵大臣を務めた。大正5年(1916年)、加藤高明らの憲政会結成に参加して副総裁となる。大正13年(1924年)、加藤内閣で内務大臣となり、翌年、普通選挙法と治安維持法を成立させる。
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大蔵省時代
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1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験に合格したが、特に官吏志望だったわけではなく、川田順を愛読していた大平は住友系の企業へのあこがれを持っていた。ところが当時大蔵次官だった同郷の津島壽一に挨拶に行った折、即決で大蔵省に採用された。1936年入省、預金部に配属。以後、税務畑を中心に以下の役職を歴任した。 1937年(昭和12年) - 横浜税務署長。当時東京税務監督局直税部長だったのが池田勇人で、以後しばしば部下として会う。 1938年(昭和13年) - 仙台税務監督局間税部長。どぶろく退治に尽力。 1939年(昭和14年) - 興亜院にて大陸経営にかかわり、1939-1940年に張家口の蒙疆連絡部で勤務したほか、帰国後も頻繁に大陸に出張。 1942年(昭和17年) - 本省主計局主査(文部省・南洋庁担当)。大日本育英会(後の日本育英会、現独立行政法人日本学生支援機構)の設立について査定。 1943年(昭和18年) - 東京財務局関税部長。国民酒場を創設。 1945年(昭和20年) - 津島壽一大蔵大臣の秘書官 1946年(昭和21年) - 初代給与局第三課長 1948年(昭和23年) - 経済安定本部建設局公共事業課長 1949年(昭和24年) - 池田勇人蔵相秘書官。以後1952年まで務める。 1950年(昭和25年) - 国税庁関税部消費税課長兼任
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