大蔵省検査によって生まれた兵庫無尽との関係
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「高松相互銀行」の記事における「大蔵省検査によって生まれた兵庫無尽との関係」の解説
そのような混乱のさなか、無尽免許の申請を受けた大蔵省による金融検査が1950年(昭和25年)6月23日に開始。主任検査官の根橋はこの会社の経営状態に驚愕する。経理状態が乱脈を極め経費支出に不正・不明朗項目があること、経営責任者に筋の通った中心人物を欠き、かつ職員は素人ばかりの寄せ集めのため業務遂行能力に乏しいこと、それが経理の乱脈と一体をなし、処理が不完全かつ正確性を失い、なおかつ人員の雇傭が不十分で正確な人数さえ把握していないことが指摘された。さらにこの年の3月末第1期決算において相当の赤字を出しており、預金をそのまま経費に計上していたほか、融資内容が著しく悪く、実質赤字は1億円に達する状況にあった。 検査官根橋は、このままでの無尽業免許は到底不可能である一方、放置して倒産させると多数の掛金者に被害を及ぼすことから、正常経営に持っていくための施策を講じる。資金と人材を送り込みから始め、最悪の場合他の強力な無尽会社への吸収合併および営業譲渡もやむなしとした。しかし当時の四国に存在した無尽会社は経営状態が芳しくなく、範囲を広げた関西から当時業界トップクラスの地位にあった兵庫無尽に白羽の矢が立った。検査官根橋は兵庫無尽の山本社長と長谷川常務に会見し、この会社の立て直しについて数回の話し合いを行った結果、山本社長の決断により救援が決定。それまでの措置として大蔵省は、不適格役職員の整理、可能な限りの経営面の整理・明朗化、未払込株式の役員責任による満額払い込み、兵庫無尽による正式経営引き受けまでの経費支出の差し止めなど厳しい制限を課した。経営立て直しに向けた兵庫無尽の役員を送り込みに対し、社内の一部では反対機運を盛り上げようとする役員もいたが、社長・小西俊雄を中心とする役員の説得もあり、同年8月13日の取締役会で兵庫無尽との契約書を承認の上、全役員が辞任届を提出し、同月29日の取締役会で兵庫無尽出向の社長として長谷川寛雄が就任した。
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