大蔵省検査と岡田信
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1921年(大正10年)、台湾銀行に大蔵省岡田信特別銀行課長を責任者とする検査が入った。これより先に、台湾銀行の貸出中不良とみられるものの相当額が華南銀行貸出に肩代わりが行われていた。岡田課長の追求は華南銀行に及び華南銀行の減配・整理にまで話が及ぶこととなり、対向の為役員全員の総辞職を申し入れたが岡田の考えにまったく影響を及ぼすこと無く、結果的に華南銀行常勤役員5名が全員辞職することとなった。華南銀行整理案に関して小笠原と岡田との間で激論が交わされたが、結果的に二人の間に個人としての信用が芽生え、華南銀行退職後は小笠原を台湾銀行で重用すべきとの口添えが岡田より台湾銀行中川頭取に対し行われた。 小笠原が東京に定住することとなると、岡田と小笠原は共にダンスレッスンを習ったり、酒席を共にして抱負を語り合ったりした。一時期暮らした池袋の家も岡田の自宅の近くと言うことで買い求めたものであり、また岡田が市川に転居した後は家族で苺狩りに岡田宅に邪魔するなど家族ぐるみで付き合った。岡田は大蔵省を退任したあと内務省官僚の南弘に引っ張られ東洋拓殖理事や台湾総督府財務局長・北海道拓殖銀行頭取になったが、ある晩岡田が自宅に来て「満州興銀総裁にならないかと言う話あるが、どう思うか」との相談を受けた。小笠原は「率直に言うと今は満州時代で国内の経済すら満州に引き回される状況にある。僕なら受ける。満州から帰ってきたら大蔵畑の指導者になれば良い」と回答した。岡田は「君も勧めるなら行って一働きしてくるか」と語った。こうして岡田は満州興銀総裁となったが、その評判は頗る高かった。しかし日本が敗戦すると、岡田は中国人によって殺害されてしまった。その死を聞いた際、小笠原は「剛直・恬淡・親切で人情に篤く進んで他人の難を救う人であったため、満州で敵の弾丸に倒れることとなったのではないか、岡田の死が悼まれてたまらない。岡田へのアドバイスが今までの人生の中で最も後悔すべきことがらだ」と語った。
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