静岡藩、民部省・大蔵省時代 1869年 -とは? わかりやすく解説

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静岡藩、民部省・大蔵省時代 1869年 -

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:55 UTC 版)

渋沢栄一」の記事における「静岡藩、民部省・大蔵省時代 1869年 -」の解説

帰国後、駿府宝台院(現所在地静岡市葵区常磐町二丁目)に謹慎していた徳川慶喜面会しこれからは、お前の道を行きなさい」との言葉拝受する旧恩報いるため、駿府静岡)に留まり静岡藩出仕した静岡ではフランスで学んだ株式会社制度実践することや、新政府からの借入金返済のために、勘定頭平岡準相談し明治2年1869年1月には商法会議所設立した。この商法会議所では銀行業務物産販売兼ね小野組で糸店を担う古河市兵衛取り扱い依頼することもあった。 1869年明治2年10月明治新政府からの招状静岡藩庁に届き栄一大久保一翁相談し東京へ向かうと民部省租税正の辞令書を受ける。一度辞任決意するも、大隈重信らの説得11月出仕する民部省内に改正掛置かれる掛長となり、度量衡制定国立銀行条例制定携わった明治4年1871年)年7月27日民部省大蔵省統合されることに伴い芳川顕正紙幣頭の下で大蔵権大丞となり、次いで大蔵大丞となる。1872年明治5年)には大蔵省三等出仕となり、紙幣寮の頭に就任(同三等出仕上野景範)。大蔵大輔井上馨大蔵少輔吉田清成連携して造幣寮事務勤しみ、ドイツ印刷され明治通宝通称ゲルマン紙幣」)を取り扱ったが、贋札事件の発生少なくなかった。さらに、同年2月起きた東京での大火からの再建大蔵省主導することとなり、井上馨東京府参事三島通庸とともに煉瓦造り街並み計画した。しかし、予算編成巡って大久保利通大隈対立し1873年5月7日大蔵大輔井上馨大蔵少輔吉田清成共同財政改革意見建議し建議書を『日新真事誌』などに掲載して論議喚起した明治6年1873年5月14日井上馨と共に退官した。 この間戊辰戦争旧幕府側で戦い投獄されていた従兄渋沢喜作出獄引き受け大蔵省への仕官世話し養蚕製糸事業調査名目ヨーロッパ視察送り出している。同じく戊辰戦争幕府側で戦った従兄尾高惇忠には富岡製糸場初代場長として事業立ち上げ託している。

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