東京府参事
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明治4年(1871年)9月、それまでの業績が認められ、高崎五六、高崎正風らと共に上京命令を受け、10月に海路で東京に至る。大久保利通の計らいにより、11月には六等出仕(奉任官)として東京府庁に権参事として入り、これ以後、新政府に出仕する。 明治5年(1872年)1月、叙従六位。2月に東京中心部は大火災で焦土となっていた。再建には大蔵省の監督下に東京府が進めることとなったが、手法を巡り対立。4月には宮島誠一郎に大蔵省の暴走を阻止するため「国権」「民法」を左院において制定してほしい旨を伝えた。5月、東京府参事となる。その後、三島は府知事由利公正を説得、ところが由利は7月に岩倉使節団に加わるため免官。大蔵省建設局が主導することとなり、大蔵省大輔の井上馨と渋沢栄一が、岩倉使節団からの報告によるシカゴ大火の復興策を参考にしたレンガ造建築の計画を提唱。三島もこれに賛同し大蔵省土木寮の原口祐之らと着工、後に銀座煉瓦街となる。 同年、大蔵省の権限が過度であると問題視する宮島誠一郎が内務省 (日本)設置案を政府要人に提案。その協議の場に左院議長後藤象二郎、副議長江藤新平、参事板垣退助、陸軍少輔西郷従道らと共に三島も参加。三島は設置に賛成だった。 10月に布告された芸娼妓解放令にも尽力。11月、教部大丞となる。同じく教部官僚だった奥宮慥斎とは意見を異にした。 同年、妻子が上京し麹町永田町に居住。 明治6年(1873年)3月、三女三島竹子が生まれる。
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