東京延伸構想と名阪間直通思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 14:47 UTC 版)
「種田虎雄」の記事における「東京延伸構想と名阪間直通思想」の解説
種田は社長在任時、将来的には名古屋鉄道・静岡鉄道・小田急電鉄などとの提携により、私鉄による東海道新線を実現する構想について発言したことがあるとされる。 また当時、標準軌路線(大阪線・山田線その他大勢)と狭軌路線(名古屋線など)が並存しており、直通運転が出来なかった名阪間の状況を改めるため、そして国鉄との直通も可能にしようという考えから、大阪線部分狭軌化の構想を打ち出した事がある。それは、大阪線の伊勢中川駅~大和高田駅間を三線軌条にし、そこから大阪鉄道(後の近鉄南大阪線など)の高田市駅まで連絡線を設ければ、大阪阿部野橋駅~近鉄名古屋駅間が直通可能になるというものであった。 当時は日中戦争が進展していたため、戦時体制の強化が図られていたが、政府では東海道本線と関西本線が被災を受けて不通となった場合に備え、種田の構想に近い形(違う所は、特に連絡線は新設せず、桜井駅から国鉄桜井線に入り、畝傍駅より関急小房線(廃線)、そして橿原神宮駅駅で大阪鉄道に乗り入れるとしていた)で代替線を作ることを命じていた。そのため参宮急行電鉄→関西急行鉄道では、自社が新製していた2200系電車の増備車(2227形)に対して、狭軌化改造が行えるように電動機は狭軌用のものを装備させていた。 この種田および政府の構想は実現する所まで行かなかったが、名阪間の直通は結局、名古屋線を伊勢湾台風の復旧工事にあわせて標準軌化することで1959年に実現させた。
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