池田光政の没後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 03:51 UTC 版)
1682年(天和2年)、池田光政が亡くなった。光政は遺言で学校を永続保つように津田に伝えていた。津田永忠は、聖堂と講堂の改築、芳烈祠の建立、石塀と門の設置などの再整備を行い、この作業は1702年まで続いた。建物の屋根はこのときに耐久性の高い備前焼瓦で葺かれた(後述)。椿山(御納所)もこのときに築かれた。芳烈祠は現在の閑谷神社で、池田光政を祀ったものである。椿山墓所には光政の爪と髪の毛が埋められたとされる。1700年(元禄13年)、当時の岡山藩主池田綱政が学校周辺の田畑を学校田とする。これによって田畑を奪われた農民は、岡山市の「幸島新田」に入植した。1704年には光政像が建立された。その後閑谷学校は一時衰退の時期を迎える。
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