池田勇人との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:41 UTC 版)
宮澤の前半生は池田勇人抜きに語ることはできない。広島県出身の父・裕は同郷で政友会の重要な政治家望月圭介の秘書官を務めたことがあり、また裕の義父(つまり喜一の祖父)小川平吉も望月と親交があった。一方、池田家は広島における望月の有力な支援者であり、望月を介する形で池田家と宮澤家は縁を深め、裕が池田勇人の最初の結婚の世話をするなど、彼らは単に郷里の友人以上の関係となっていった。もともと外務省か内務省を志望していた裕の長男・喜一は、父を通じた池田の強い勧めで大蔵省に入省、以来二十余年に及ぶ池田との縁の始まりであり、とくに戦後池田の秘書官となって以後はその死まで常に側近として仕えた。 政界入りにも池田の意向が大きく働いた。池田通産大臣の不信任に殉じるように大蔵省を退職した宮澤に対して、池田は参議院選挙への出馬を勧めた。この時池田が「2区の俺の地盤と3区の君のお父さんの地盤をあわせれば参議院広島選挙区で当選できるよ」と言ったという逸話が残っている。 官僚であった占領時代に、通訳や渉外担当としてGHQなど米国各機関との折衝に関わって、基地提供を提案したことで知られる池田蔵相の訪米(1950年)やサンフランシスコ講和会議(1951年)、また参議院議員となった後も、再軍備問題を巡る池田・ロバートソン会談(1953年)や、池田の総理大臣就任後の池田・ケネディ会談(1961年)など、戦後日本の針路を決定付ける重要な局面にいずれも池田側近として立ち会ったため、「戦後政治の生き字引」などといわれる。
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