総理大臣就任とは? わかりやすく解説

総理大臣就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:24 UTC 版)

大平正芳」の記事における「総理大臣就任」の解説

1978年昭和53年)の自民党総裁選挙に、福田は「大福密約」を反故にして再選出馬表明大平福田挑戦する形で総裁選出馬する事前世論調査では福田有利だったが、田中派全面支援の下、総裁予備選挙で福田上回る票を獲得。この直後記者会見で、「一瞬が意味のある時もあるが、10年何の意味も持たないことがある歴史とは誠に奇妙なものだ」と発言し、「大福密約」の無意味さについて触れている。この結果受けて福田本選辞退大平総裁誕生し1978年12月7日に第68内閣総理大臣に就任した。

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総理大臣就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:41 UTC 版)

宮澤喜一」の記事における「総理大臣就任」の解説

1991年自由民主党総裁選挙」、「宮澤内閣」、および「宮澤内閣 (改造)」も参照 1991年平成3年)、海部俊樹首相退陣に伴う総裁選挙で勝利72歳にして内閣総理大臣に就任した。参議院議員経験者としては初めての内閣総理大臣である。また現在、官僚出身最後総理である。 宮澤冷戦の終結を「二、三百年一度歴史的変動」ととらえていた。経済に関してプラザ合意高度成長終焉であり、それに替わるものの出発」と受け止めバブル景気果実国民生活基盤整え内需振興に使うべきなのに、資金がどんどん流出している状況問題視し資産倍増論から発展した生活大国構想実現考えていた。海部内閣からの懸案であったPKO協力法成立させ、それに伴い自衛隊カンボジア派遣行ったが、その過程派遣され文民警察官国連ボランティア殺害された際に撤退論が支配する世論流され自衛隊引き揚げはしなかったが、「PKO要員殺害止むを得ない。」と発言し批判浴びた1989年中華人民共和国起きた中国共産党政府による天安門事件での民衆殺戮対し西側先進国が行っていた多岐経済制裁覆すため、江沢民宮澤天皇訪中要請し金丸信らの後押しもあって実現した宮澤前任である海部内閣時に円借款再開日本からの制裁真っ先解除されていたが、天皇訪中日本続いた欧米制裁解除大きく貢献したとされる首相退任直前慰安婦問題について河野談話発表し謝罪意向表明したが、一部保守派論壇から非難された。 1992年平成4年6月には、政府開発援助ODAに関する基本理念重点事項などを集大成しODA大綱閣議決定。またバブル景気崩壊後金融不安巡って側近であった浜田卓二郎進言を容れて、8月中旬日銀総裁であった三重野康歩調合わせて東証閉鎖日銀特融による公的資金投入というシナリオ密かに模索したが、大蔵省反対により一旦断念、なおも30日自民党軽井沢セミナー金融機関への公的援助発言をする。地価株価等の資産価格大幅な下落から、今まで景気後退とは質が違うとし、公的資金投入して不良債権早期処理する必要性があると発言したものであった。 しかし「金融機関への公的資金投入構想官庁マスコミ経済団体、そして当の金融機関自身からの強い反対に遭い宮澤その方針を取り下げなければいけなくなり、これにより銀行への公的資金投入による不良債権処理タブーとなり、その後何年にもわたり日本の政治家誰一人としてこのことを言えなくなった宮澤がこの発言をした背景には、前述通り側近浜田らの政策集団自由社会フォーラム」で同種の議論進んでいたことがあり、日銀総裁三重野なども危機意識共有し日銀特融での支援検討していた。また宮澤は「海外からの情報で気が付いた。でも(自民党内の)皆ついてこないんだよね。」と漏らしていたことがあったという。後藤謙次は「公的資金投入してでも金融機関不良債権の処理をすべきと一番先に提唱したのも宮澤氏でした。仮に宮澤政権下で不良債権処理進んでいれば平成9年山一証券破錠はなかったもしれません。」と述べている。しかし、宮沢が自らの構想実現リーダーシップ発揮した形跡はなく、「どこまで本気だったのか」「総理なのに指導力がない」といった批判もついて回っている。前述通り当時三重野宮沢意を受け日銀特融という形で公的支援することを約束していたが、各方面からの反対受けて宮沢腰砕けになってしまい、そのような宮沢姿勢に非常に苛立っていたという。 折からリクルート事件などを巡って高まっていた政治改革機運の中で、宮澤政治改革関連法案の成立目指したが、自身は必ずしも小選挙区制導入はじめとする政治改革積極的ではなかった。竹下派から分かれた小沢羽田グループ改革フォーラム21)は宮澤そのような姿勢反発強め1993年平成5年6月内閣不信任案提出される賛成にまわり、同案可決された。自民党大量離党者を出したまま総選挙を行うことを余儀なくされる。なお、宮澤日本にとって3度目自国開催となった第19回先進国首脳会議主催しているが、これは公示から3日目という慌ただしさの中で行われた選挙では、自民党結果的にほぼ現有議席維持したものの、新生党新党さきがけなど自民党から離れた議席回復することができず過半数大きく割り込み日本新党中心とした野党勢力結集して細川護熙政権誕生宮澤自民党長期支配38年、及び55年体制最後の首相となった宮澤第15代自民党総裁だったために、同じく15代目政権明け渡した徳川慶喜なぞらえ自民党徳川慶喜」といわれた。 保守本流エース国際派総理大臣として大きな期待かかった宮沢だったが、竹下派支配下にあって思い通り政権運営はままならなかった。本人は必ずしも意欲的でなかった政治改革政権命運賭けざるを得ず、しかもそれを巡って自民党分裂し退陣追い込まれることになったのが象徴的と言える後述:「やる」参照)。経済通とされながらも、不況深刻化する中で有効な経済対策打てず、生活大国構想着手さえ出来なかった。得意の外交でも北方領土返還などに意欲見せていたが、進展はなかった。在任中、ほぼ唯一の業績として、海部内閣からの懸案だったPKO協力法成立と、それに伴う自衛隊カンボジア派遣があるが、ハト派自衛隊の海外派遣には抑制的な考え持っていた宮沢が、戦後初となる陸上自衛隊海外派遣成し遂げることになり、皮肉な「実績となった

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総理大臣就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:54 UTC 版)

中曽根康弘」の記事における「総理大臣就任」の解説

1982年11月自民党総裁選で、盟友渡邉恒雄中曽根擁立のため、田中角栄秘書早坂茂三引き合わせ働きかけた。早坂と、中曽根秘書小林克己渡邉と同じ元日共産党党員という繋がりがあった。「日本一中曽根嫌い」を公言していた金丸信との和解もあり田中派支持得た中曽根は、党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票得て総裁地位獲得1982年11月鈴木善幸の後を受けて71内閣総理大臣に就任する。三角大福中では最後、のべ6度閣僚経験2度党三役経験経て首相就任であった行政改革推進と「戦後政治の総決算」を掲げ1987年まで在任し歴代第7位(戦後5位・昭和時代では3位)の長期政権となった従来官僚頼み調整型政治打破し私的諮問機関多数設け首相というより大統領型のトップダウン標榜し政治姿勢注目され、「大統領首相」とも呼ばれた。 ただし政権発足初期は、総裁派閥から出すのが常識だと思われていた内閣官房長官田中派後藤田正晴起用し党幹事長同じく二階堂進据え、その他田中派閣僚を7人も採用するなど、田中角栄影響力強さ批判され田中曽根内閣」「角影内閣さらには「直角内閣」などと揶揄された。1983年6月参院選当たって3年前同様の同日選取り沙汰されたが、中曽根はそれを選択せず参院選のみが挙行され68議席得てまずまず勝利を収めた。しかし10月田中ロッキード事件一審判決実刑判決受けた後の同年12月総選挙田中判決選挙)では自民党過半数割れし、党内反主流派から批判噴出した決定打もなく、「いわゆる田中氏政治的影響力一切排除する」という総裁声明を出すことで危機乗り切った国会で新自由クラブとの統一会派結成により第2次中曽根内閣形成し自分と政治信条合わない田川誠一自治大臣兼国公安委員会委員長として迎え苦渋味わった党内批判は翌1984年総裁選向けてくすぶり続け鈴木善幸前首相福田赳夫元首相野党公明党民社党まで加わった二階堂擁立構想」まで持ち出されたが頓挫し中曽根牽制し続けた長老影響力落ちる事になった。更に1985年2月田中脳梗塞倒れて政治生命事実上失うと、官房長官として留まった後藤田協力もあって、政権運営主導権中曽根の手移った中曽根自民党単独政権回復執念見せ、「死んだふり解散」とも呼ばれながら衆参同日選挙強行した1986年7月衆院選参院選自民党圧勝させた。衆院選での公認候補300議席当時単独政党では戦後最多であり、これに追加公認4人、さらに開票直後解党した新自由クラブからの合流5人などが加わった参院選での72当選追加公認2人)、非改選議員合わせた所属議員145人も自民党史上最多であった中曽根党規約改正による総裁任期1年延長という実利得た上、「保守回帰」と呼ばれた1980年代後半政治潮流創設者として歴史に名前を残した。なお、この選挙期間中の街頭演説で、「大型間接税導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と発言したが、にもかかわらず翌年売上税導入動いたことで、一時窮地追い込まれることになる(後述)。 一方で改憲こそ首相在任中明言しなかったが、“戦後政治の総決算”を掲げ教育基本法や“戦後歴史教育”の見直し靖国神社公式参拝防衛費1%枠撤廃等、強い復古調姿勢により左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」「軍国主義者」「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」などといった激し批判浴びた教育改革については、文部省日教組二項対立教育改革終止符を打つため1984年自身私的諮問機関として臨時教育審議会臨教審)を設置したその後臨教審答申受け継がれ1988年内閣主導による学習指導要領改訂成し遂げた。これが日教組歴史的分裂契機となった政府税制調査会会長として税収の「直間比率是正観点から売上税導入唱えた加藤寛をはじめ、石川忠雄勝田吉太郎香山健一小堀桂一郎西義之佐藤誠三郎 など、自らの主張に近い意見を持つ学識経験者を各諮問機関中心人物起用し迅速な決定によるトップダウン型政策展開に活用した。これは自民党内の非主流派や野党などからは「御用学者重用」と批判され選挙経た国会議員によって構成される国会委員会より、中曽根任意選任できる諮問機関での審議の方が重要と見られ報道される事態招いた1986年発生した伊豆大島三原山噴火では、首相権限海上保安庁所属巡視船南極観測船出動させ、滞在者も含めた島民全員救出成功した頭越し決定下された国土庁官僚野党などからは独断専行非難されたものの、当時内閣安全保障室長であった佐々淳行らは、後年阪神・淡路大震災発生時における村山内閣初動対応の遅れと比較して、その決断力実行力高く評価している。また、三里塚闘争が今だ継続するであったが、成田空港二期工事着工決断した性風俗店摘発お色気番組規制にも力を入れ風俗営業法大幅に改正し風俗店出店区域大幅に制限し、日またぎ営業禁止しテレビコマーシャル禁止するなどしたため同時期に起こったエイズ騒動とともに、「日本における性風俗産業壊滅した。」という風説流れるほどになったお色気番組に関して国会答弁で「まず当面は、郵政省監督権持っておるわけでございますから、郵政省の側においてよく民放諸君とも話をしてもらって、そしていやが上にも自粛してもらうし、その実上げてもらう。郵政省としてはそれをよくチェックして見て、そして繰り返さないようにこれに警告発するなり、しかるべき措置やらしたいと思います。」と述べその後お色気番組自粛遠因になった一方広島市原爆病院視察の際の「病は気から発言や「黒人知的水準が低い」「日本差別されている少数民族はいない」、その発言について中曽根事務所出した謝罪文に関して質問に、女性蔑視取られるような「まあ女の子書いた文章だから。」などの失言物議を醸すことも多かった(これら一連の事象については知的水準発言参照)。 首相在任中2度あった総選挙1983年1986年)では、現職首相ありながらトップ当選できなかった(当時中選挙区制であり、2位当選している)。これは戦後首相では中曽根だけである。トップ当選したはいずれ福田赳夫元首相で、首相経験者同士が同じ選挙区(旧群馬3区)で対決したことになる。中選挙区時代の旧群馬3区は、福田のほかに同じく首相務めた小渕恵三社会党書記長などを務めた山口鶴男といった大物そろった日本でも有数激戦区でもあった(上州戦争参照)。なお、日本において現職首相選挙落選したことは過去一度もない(首相経験者落選した例は片山哲石橋湛山海部俊樹の例がある)。 ハイテク景気バブル景気といった好景気演出し支持率高水準維持して自民党単独史上最多議席獲得するとともに任期後半には上記通り田中影響脱した好調すぎる高付加価値製品対米輸出によって貿易摩擦問題浮上したが、プラザ合意円高路線合意された後の内需拡大政策として民活民間活力の意)と称し国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道清算事業団大規模に行った旧国鉄用地売却含んだ国有地払い下げ等を行った。これにより、大都市圏リゾート開発地をはじめとして日本全国地価高騰したが、それに対す金融引締め政策を行わなかったためバブル経済引き起こしたという批判根強いまた、このバブルにおいて横行した各種マネーゲームからは、やがて発覚したリクルート事件や、田川次いで新自由クラブから労働大臣として中曽根政権入閣し1986年自民党復党後中曽根派所属していた山口敏夫失脚収監など、政治家カネを巡る問題が再び取りざたされるようになった

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