三角大福
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三角大福(さんかくだいふく)は、佐藤栄作内閣総理大臣・自由民主党総裁の後継の座を、1970年代の自民党の実力者である三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の4人が争ったことから、各人の名前の1文字を取って表した言葉である。中曽根康弘を加えて三角大福中[1](さんかくだいふくちゅう)と呼ぶこともある。
概説
「参議院のドン」と呼ばれた当時の重宗雄三参議院議長が、重宗の選挙地盤だった山口県柳井市の「三角餅 (みかどもち)」という銘菓をヒントに「三角大福」と読んだのが起源ともされるが、定かではない。
江戸時代中期に当地の藤坂屋という菓子屋が丸い大福餅を三角にして売り出したところ、中身は同じで味は変わらないのに目新しさから大当たりした。これとかけて、1972年の自民党総裁選挙で三木・田中・大平・福田の4人が立候補すると、同じ自民党で掲げる政策構想はさほど変わらないのに、佐藤長期政権に飽きあきしていたマスコミが4候補の新鮮さに大騒ぎの報道を示したことを表現したとされる。実際には1971年の時点で、国会で「三角大福中」という言葉が登場しており(衆院公害対策特別委員会、1971年10月8日、島本虎三の発言)、ポスト佐藤を争う5人を指す言葉として用いられていた例がある。俵孝太郎は「三角大福」という言葉は『週刊朝日』が広めたとしている[2]。
佐藤退陣後の1972年以降は、三角大福中の5人の派閥領袖が中心となって、日本の政界が動いていくことになった。1972年の総裁選では、中曽根康弘が出馬を取りやめ田中の支持に回ったため、「三角大福」の争いとなったが、最終的に5人全員が総理・総裁の座を射止めたため、「三角大福中」という言葉が用いられることもある。第2次田中角栄内閣の組閣後写真では、この5人が「中・三・角・福・大」の順に最前列で並んでいる。
主な経歴

第二次田中改造内閣の船出にあたって行われた恒例の記念撮影は、重要閣僚として入閣した三角大福中が正面にズラリと並ぶ重量感あふれるものとなった。前列左から、中曽根通産相、福田蔵相、田中首相、三木副総理、大平外相。1973年11月25日、官邸。
党
- 田中角栄(第6代総裁、1972年7月5日 - 1974年12月4日)
- 三木武夫(第7代総裁、1974年12月4日 - 1976年12月23日)
- 福田赳夫(第8代総裁、1976年12月23日 - 1978年12月1日)
- 大平正芳(第9代総裁、1978年12月1日 - 1980年6月12日)
- 中曽根康弘(第11代総裁、1982年11月25日 - 1987年10月31日)
- 三木武夫(1956年12月 - 1957年7月、総裁: 石橋湛山、岸信介)
- 福田赳夫(1959年1月 - 1959年6月、総裁: 岸信介)
- 三木武夫(1964年7月 - 1965年6月、総裁: 池田勇人、佐藤栄作)
- 田中角栄(1965年6月 - 1966年12月、総裁: 佐藤栄作)
- 福田赳夫(1966年12月 - 1968年11月、総裁: 佐藤栄作)
- 田中角栄(1968年11月 - 1971年6月、総裁: 佐藤栄作)
- 中曽根康弘(1974年12月 - 1976年9月、総裁: 三木武夫)
- 大平正芳(1976年12月 - 1978年12月、総裁: 福田赳夫)
内閣
田中角栄は総理総裁の条件として、「党三役のうち幹事長を含む二役、内閣で外務・大蔵・通産のうち二閣僚の経験者」を挙げていた。三角大福は全てこれを満たしていた[注釈 1]。中曽根は閣僚が通産相のみだが、大平内閣で蔵相ポストを提示されながらも幹事長を要求し、実現しなかったことがある。
その反面、総理の女房役である内閣官房長官を務めたのは大平正芳ただ一人である[注釈 2]。
三角大福は自民党の主要派閥を率いる領袖だったが、内閣は2年周期で交代していた。その主たる原因は、派閥間の怨念と政権欲による離合集散を繰り返したことで党内抗争が絶えなかったことによる。中曽根は、政権前期は二階堂擁立構想などの抗争にさらされたが、長老の影響力の低下と選挙の大勝によって長期にわたって政権を維持することができた。
- 外務大臣
- 大平正芳(1962年7月18日 - 1963年12月9日、池田二次改造2、池田二次改造3、池田三次)
- 三木武夫(1966年12月3日 - 1967年11月25日、佐藤一次改造3、佐藤二次、佐藤二次改造1)
- 福田赳夫(1971年7月9日 - 1972年7月7日、佐藤三次改造)
- 大平正芳(1972年7月7日 - 1973年11月25日、田中一次、田中二次、田中二次改造1)
- 大蔵大臣
- 田中角栄(1963年7月18日 - 1965年6月3日、池田二次改造2、池田二次改造3、池田三次、佐藤一次)
- 福田赳夫(1965年6月3日 - 1966年12月3日、佐藤一次改造1、佐藤一次改造2)
- 福田赳夫(1973年11月25日 - 1974年7月16日、田中二次改造1)
- 大平正芳(1974年7月16日 - 1976年12月14日、田中二次改造1、田中二次改造2、三木)
- 通産大臣
- 三木武夫(1965年6月3日 - 1966年11月3日、佐藤一次改造1)
- 大平正芳(1968年11月30日 - 1970年1月14日、佐藤一次改造2)
- 田中角栄(1971年7月5日 - 1972年7月7日、佐藤三次改造)
- 中曽根康弘(1972年7月7日 - 1974年12月9日、田中一次、田中二次、田中二次改造1、田中二次改造2)
- 内閣官房長官
一覧
三木 | 田中 | 大平 | 福田 | 中曽根 | |
---|---|---|---|---|---|
総理総裁 | ◯ | ◯ | ◯ | ◯ | ◯ |
大蔵大臣 | − | 池田 佐藤 |
田中 三木 |
佐藤 田中 |
− |
外務大臣 | 佐藤 | − | 池田 田中 |
佐藤 | − |
通産大臣 | 佐藤 | 佐藤 | 佐藤 | − | 田中 |
内閣官房長官 | − | − | 池田 | − | − |
党幹事長 | 石橋 岸 池田 佐藤 |
佐藤 | 福田 | 岸 佐藤 |
三木 |
党総務会長 | − | − | − | − | 佐藤 福田 |
党政調会長 | 岸 池田 |
池田 | 佐藤 | 岸 池田 |
− |
その後の三角大福
自民党の全盛期を支えた4人だったが、現在でも世襲で自民に血統が残るのは息子の康夫→孫の達夫につながった福田のみである。
田中の娘夫婦の眞紀子・直紀は当初は自民党から出馬したが、のちに民主党へ移籍した。大平は娘世代までは森田一が自民党に属していたが、一族から現在出馬している玉木雄一郎は国民民主党代表である。三木も高橋紀世子や高橋永、松崎哲久など親戚で世襲し出馬した党派は非自民であったが義甥の森英介は自民党から千葉11区から当選し続けている。
なお、中曽根家の後裔の政治家はいずれも自民党に所属し、康弘の子の中曽根弘文は群馬県選挙区選出の参議院議員であり、その子の中曽根康隆は衆議院比例北関東ブロックの30位→群馬1区(康弘が中選挙区制時代に立候補していた旧群馬3区の区域は含まれてない)から当選している。
参考文献
- 俵孝太郎『戦後首相論』グラフ社、2004年。ISBN 9784766208078。
関連項目
- 自由民主党総裁選挙
- 安竹宮(ニューリーダー)
- ネオ・ニューリーダー
- 金竹小
- 角福戦争
- 麻垣康三
- 岸破義信
- 和田誠 - イラストレーター。「三角大福」の角逐をCMになぞらえた「CM三角大福」というイラスト集を、著書『倫敦巴里』で発表した[3][4]。
脚注
注釈
出典
- ^ 一世, 田中 (2022年2月25日). “【政解】自民6派閥 変わる役割 保守本流政権が復活”. 産経ニュース. 2023年12月18日閲覧。
- ^ 俵孝太郎 2004, p. 108.
- ^ “和田 誠/倫敦巴里 by メルカリ”. メルカリ. 2025年2月17日閲覧。
- ^ books, nostos (2024年5月12日). “倫敦巴里 | 和田誠 | nostos books ノストスブックス”. nostos.jp. 2025年2月17日閲覧。
外部リンク
- 藤坂屋本店と国木田独歩 - ウェイバックマシン(2001年3月3日アーカイブ分)
三角大福中
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第2次佐藤内閣第1次改造内閣で運輸大臣、第3次佐藤内閣で防衛庁長官を歴任する。運輸大臣として入閣した際には、それまで佐藤栄作を「右翼片肺内閣」と批判していたのにもかかわらず入閣したため風見鶏と揶揄され、以後これが中曽根の代名詞になった。中曽根本人はこの変わり身について佐藤が沖縄返還を目指していたことからそれに協力することにした旨を説明している。 運輸大臣時代は成田空港問題にかかわり、1968年(昭和43年)4月6日に友納武人千葉県知事とともに新東京国際空港公団と条件賛成派の「用地売り渡しに関する覚書」取り交わしに立ち会っている。「札束を積めば農家なんてすぐ土地を売る」と反対派の訴えに耳を貸さない政治家が多い中、同年8月9日には自宅にアポなしで訪れた戸村一作ら反対同盟と面会している。また、これに先立って空港公団幹部によるアポなし訪問を受け、中曽根は買い取り単価を引き上げて畑1反あたり一律110万円にすることにその場で同意している。 防衛庁長官就任直後、「第一線級の隊員と話し合いたい」と語り、1970年(昭和45年)1月21日にはT-33練習機で千歳基地を訪問して、食堂で隊員らと食事をしている。また、防衛庁の事務方で権勢を振るっていた海原治が国防会議事務局長として新聞記者との懇談会で防衛計画について批判したことが1970年(昭和45年)3月7日の衆議院予算委員会で取り上げられた際、中曽根は同席する本人を前に「事務屋なので政策論を述べる地位ではない。事務局長というのは庶務課長、極端にいえば文書を集め、文書を発送するお茶汲みに過ぎない」という趣旨を言い放ち、議場を騒然とさせた。三島事件を批判する声明を防衛庁長官として出したが、三島に近い一部保守系団体や民族派勢力右翼団体などから強く批判された。三島は死の2か月前の1970年(昭和45年)9月に、中曽根氏が主宰していた新政同志会青年政治研修会で「我が国の自主防衛について」という講演をしている。 こうして要職を経験する中で、いわゆる「三角大福中」の一角として、ポスト佐藤の一人とみなされるようになっていった。佐藤後継を巡る1972年(昭和47年)の総裁選に際しては、野田武夫ら派内の中堅、ベテラン議員や福田支持派から出馬要請を受けるが、日中問題で福田の姿勢に不満を抱いていた派内の河野洋平を始めとする若手議員が田中角栄支持に傾いていたことなどから、自らの出馬を取り止め、田中支持に回った。このことは田中が福田に勝利するにあたり決定的な役割を果たしたが、田中の買収などと後に週刊誌で憶測を呼ぶことにもなった。このように少数派閥を率いるがゆえに自民党内の合従連衡に腐心しただけでなく、資金調達にも苦労し、殖産住宅事件で起訴された東郷民安が旧制静岡高の同級生である中曽根から自民党総裁選のための資金提供を頼まれ一部の自社株売買を行ったと主張したことから、1977年(昭和52年)に証人喚問を受けることとなる。 第1次田中角栄内閣の通商産業大臣兼科学技術庁長官となり、第2次内閣では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣に専任となる。三木内閣時代、自由民主党幹事長となり、三木おろしの際には、三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。 1976年(昭和51年)、ロッキード事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。ここでも悪運の強さが幸いしたとされる。後に“塀の上を歩いて内側に落ちたのが田中角栄、外側に落ち勲章までもらったのが中曽根”と揶揄された。同年の衆院選では事件との関係から落選すら囁かれたが、辛うじて最下位で当選した。福田政権で総務会長に就いたのちは福田に接近し、まとめ役とされる総務会長ながら、政権ナンバー2で福田の潜在的ライバルの大平幹事長の政策とは逆方向の発言を繰り返す。 1978年(昭和53年)2月頃から「国民の協力を得て自衛隊の近代化、装備の充実を長期的な計画で進めなければならない」などとタカ派的主張を全面に出すようになる。3月の成田空港管制塔占拠事件に対しては「成田の過激派は迫撃砲を使ってでも退治せよ」と発言して総務会を過激派取り締まりの新規立法など強硬路線でまとめ上げ福田首相に直訴した。4月に武装中国漁船が大挙して尖閣諸島周辺領海に侵入して操業を行った事件では「自衛隊を出動させろ」と主張した。栗栖弘臣統幕議長が金丸信防衛庁長官に解任された際には、問題とされた来栖発言の主旨である有事法制必要論を肯定する発言をしている。 1978年自由民主党総裁選挙に「明治時代生まれのお年寄りがやるべき時代ではない」と世代交代を訴える形で名乗りをあげ、一時は予備選挙で大平を上回り2位につけるという世論調査が出るほどであったが、予備選挙の結果は大平が1位となり中曽根は3位となる。第1次大平内閣では幹事長ポストを要求するも、逆に蔵相を提示され拒否した。非主流派としていわゆる四十日抗争でも反大平連合に属したが、ハプニング解散の際には派内の強硬論に耳を貸さず、早くから本会議での造反に反対するなど、三木・福田とは温度差があった。そのため大平後継では本命の一人だったが、当時は田中角栄の信頼を勝ち得ておらず、総裁の座を逃した。 鈴木内閣では主流派となるとともに、行政管理庁長官として行政改革に精力を注ぎ、鈴木善幸首相の信頼を得る。中曽根自身は蔵相ポストを希望していたものの、派の後輩の渡辺美智雄にその座を奪われるという屈辱を味わう。しかし、財政再建の手段として行政改革にスポットライトが当たる中、行政管理庁長官として職務に励み、首相就任後分割民営化などの答申をすることになる土光敏夫の信頼も得ることになった。 鈴木内閣で当時は軽量ポストとされていた行政管理庁長官として入閣した中曽根に向ける世間や政治マスコミの視線も厳しかった。更に、中曽根が三角大福中の中で唯一総理大臣・自民党総裁になれず、鈴木善幸が総理大臣となったことで三角大福中でさえない鈴木にさえ遅れをとった、との見方が少なくなかった。特に鈴木が任期末期を迎えたころ、河本敏夫・安倍晋太郎・中川一郎が総裁選への出馬態勢を整える中で中曽根が、鈴木総裁が再選を望むなら反対しない、と表明したときは、これで中曽根の目は将来にわたって消えた、という見方が横行して酷評された。中曽根の地元の群馬県榛名町の商工会から定例行事である秋の講演の講師に呼ばれていた俵孝太郎は講演後の質疑応答で、今回の中曽根発言と世間の評判についてどう思うかと尋ねられた際に、「鈴木首相にとって臨調方式による行政改革は師匠である池田勇人が提唱したのに、彼の没後に放置されていた宿題であって、是非ともこれを再び軌道に乗せたいと思い、長期的視点で実力者の中曽根に任せた」「赤字国債の発行停止は、同志だった大平正芳が果たせなかった悲願の達成で、それがこの年末の予算編成で経済情勢の悪化で実現不可能とわかった時点で、鈴木は潔く身を引き、後継者に引き継ぐ覚悟である」「現に後継の総理総裁の座を狙って手を上げているものはすべて反鈴木、いいかえると反大平・反田中角栄のグループで鈴木の意志を継ぐ立場にない。彼らが同士討ちになれば、鈴木が後継者と考える存在が断然有利になるわけで、そうした点を考えれば、近く中曽根政権が実現することは確実と思われる」と明らかにしたことで、後から中曽根本人から同意見であると手紙で賛同を受けている。実際に当時の自民党の総裁公選規定で立候補に必要な国会議員50人の推薦が、中曽根直系議員だけでは僅かに足りなかった。しかし、後述のように俵の予想通りに反田中―反大平勢力が河本・安倍・中川と乱立する中で、旧大平・旧田中派が後押しする鈴木後継の中曽根支持派の結束は抜群で、一応自民党総裁選は公選の形になったものの圧勝に終わった。
※この「三角大福中」の解説は、「中曽根康弘」の解説の一部です。
「三角大福中」を含む「中曽根康弘」の記事については、「中曽根康弘」の概要を参照ください。
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