三角大福中とは? わかりやすく解説

三角大福

(三角大福中 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/08 15:19 UTC 版)

三角大福(さんかくだいふく)は、佐藤栄作内閣総理大臣自由民主党総裁の後継の座を、1970年代の自民党の実力者である三木武夫田中角栄大平正芳福田赳夫の4人が争ったことから、各人の名前の1文字を取って表した言葉である。中曽根康弘を加えて三角大福中[1](さんかくだいふくちゅう)と呼ぶこともある。

概説

「三角大福中」の5人
名前 木武夫 田中 平正芳 田赳夫 曽根康弘
写真
生没年 1907年-1988年 1918年-1993年 1910年-1980年 1905年-1995年 1918年-2019年
議員在任 1937年-1988年 1947年-1990年 1952年-1980年 1952年-1990年 1947年-2003年
首相在任 1974年-1976年 1972年-1974年 1978年-1980年 1976年-1978年 1982年-1987年

参議院のドン」と呼ばれた当時の重宗雄三参議院議長が、重宗の選挙地盤だった山口県柳井市の「三角餅 (みかどもち)」という銘菓をヒントに「三角大福」と読んだのが起源ともされるが、定かではない。

江戸時代中期に当地の藤坂屋という菓子屋が丸い大福餅を三角にして売り出したところ、中身は同じで味は変わらないのに目新しさから大当たりした。これとかけて、1972年の自民党総裁選挙で三木・田中・大平・福田の4人が立候補すると、同じ自民党で掲げる政策構想はさほど変わらないのに、佐藤長期政権に飽きあきしていたマスコミが4候補の新鮮さに大騒ぎの報道を示したことを表現したとされる。実際には1971年の時点で、国会で「三角大福中」という言葉が登場しており(衆院公害対策特別委員会、1971年10月8日、島本虎三の発言)、ポスト佐藤を争う5人を指す言葉として用いられていた例がある。俵孝太郎は「三角大福」という言葉は『週刊朝日』が広めたとしている[2]

佐藤退陣後の1972年以降は、三角大福中の5人の派閥領袖が中心となって、日本の政界が動いていくことになった。1972年の総裁選では、中曽根康弘が出馬を取りやめ田中の支持に回ったため、「三角大福」の争いとなったが、最終的に5人全員が総理・総裁の座を射止めたため、「三角大福中」という言葉が用いられることもある。第2次田中角栄内閣の組閣後写真では、この5人が「中・三・角・福・大」の順に最前列で並んでいる。

主な経歴

三角大福中の勢揃い(前列)
第二次田中改造内閣の船出にあたって行われた恒例の記念撮影は、重要閣僚として入閣した三角大福中が正面にズラリと並ぶ重量感あふれるものとなった。前列左から、中曽根通産相、福田蔵相、田中首相、三木副総理、大平外相。1973年11月25日、官邸。

三角大福中は、いずれも自民党幹事長を経て総裁になっている。

総裁
  • 田中角栄(第6代総裁、1972年7月5日 - 1974年12月4日)
  • 三木武夫(第7代総裁、1974年12月4日 - 1976年12月23日)
  • 福田赳夫(第8代総裁、1976年12月23日 - 1978年12月1日)
  • 大平正芳(第9代総裁、1978年12月1日 - 1980年6月12日)
  • 中曽根康弘(第11代総裁、1982年11月25日 - 1987年10月31日)
幹事長
  • 三木武夫(1956年12月 - 1957年7月、総裁: 石橋湛山岸信介
  • 福田赳夫(1959年1月 - 1959年6月、総裁: 岸信介)
  • 三木武夫(1964年7月 - 1965年6月、総裁: 池田勇人、佐藤栄作)
  • 田中角栄(1965年6月 - 1966年12月、総裁: 佐藤栄作)
  • 福田赳夫(1966年12月 - 1968年11月、総裁: 佐藤栄作)
  • 田中角栄(1968年11月 - 1971年6月、総裁: 佐藤栄作)
  • 中曽根康弘(1974年12月 - 1976年9月、総裁: 三木武夫)
  • 大平正芳(1976年12月 - 1978年12月、総裁: 福田赳夫)

内閣

田中角栄は総理総裁の条件として、「党三役のうち幹事長を含む二役、内閣外務大蔵通産のうち二閣僚の経験者」を挙げていた。三角大福は全てこれを満たしていた[注釈 1]。中曽根は閣僚が通産相のみだが、大平内閣で蔵相ポストを提示されながらも幹事長を要求し、実現しなかったことがある。

その反面、総理の女房役である内閣官房長官を務めたのは大平正芳ただ一人である[注釈 2]

三角大福は自民党の主要派閥を率いる領袖だったが、内閣は2年周期で交代していた。その主たる原因は、派閥間の怨念と政権欲による離合集散を繰り返したことで党内抗争が絶えなかったことによる。中曽根は、政権前期は二階堂擁立構想などの抗争にさらされたが、長老の影響力の低下と選挙の大勝によって長期にわたって政権を維持することができた。

外務大臣
大蔵大臣
通産大臣
内閣官房長官

一覧

三木 田中 大平 福田 中曽根
総理総裁
大蔵大臣 池田
佐藤
田中
三木
佐藤
田中
外務大臣 佐藤 池田
田中
佐藤
通産大臣 佐藤 佐藤 佐藤 田中
内閣官房長官 池田
党幹事長 石橋

池田
佐藤
佐藤 福田
佐藤
三木
党総務会長 佐藤
福田
党政調会長
池田
池田 佐藤
池田

その後の三角大福

自民党の全盛期を支えた4人だったが、現在でも世襲で自民に血統が残るのは息子の康夫→孫の達夫につながった福田のみである。

田中の娘夫婦の眞紀子直紀は当初は自民党から出馬したが、のちに民主党へ移籍した。大平は娘世代までは森田一が自民党に属していたが、一族から現在出馬している玉木雄一郎国民民主党代表である。三木も高橋紀世子や高橋永、松崎哲久など親戚で世襲し出馬した党派は非自民であったが義甥森英介は自民党から千葉11区から当選し続けている。

なお、中曽根家の後裔の政治家はいずれも自民党に所属し、康弘の子の中曽根弘文群馬県選挙区選出の参議院議員であり、その子の中曽根康隆は衆議院比例北関東ブロックの30位→群馬1区(康弘が中選挙区制時代に立候補していた旧群馬3区の区域は含まれてない)から当選している。

参考文献

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 以後、この条件を満たして総理総裁に就任したのは、橋本龍太郎のみである。
  2. ^ 内閣官房長官を務めたことがある自民党総裁には佐藤栄作大平正芳鈴木善幸竹下登宮澤喜一小渕恵三河野洋平安倍晋三福田康夫(福田赳夫の長男)、菅義偉がいる。

出典

  1. ^ 一世, 田中 (2022年2月25日). “【政解】自民6派閥 変わる役割 保守本流政権が復活”. 産経ニュース. 2023年12月18日閲覧。
  2. ^ 俵孝太郎 2004, p. 108.
  3. ^ 和田 誠/倫敦巴里 by メルカリ”. メルカリ. 2025年2月17日閲覧。
  4. ^ books, nostos (2024年5月12日). “倫敦巴里 | 和田誠 | nostos books ノストスブックス”. nostos.jp. 2025年2月17日閲覧。

外部リンク


三角大福中

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:54 UTC 版)

中曽根康弘」の記事における「三角大福中」の解説

第2次佐藤内閣第1次改造内閣運輸大臣第3次佐藤内閣防衛庁長官歴任する運輸大臣として入閣した際には、それまで佐藤栄作を「右翼片肺内閣」と批判していたのにもかかわらず入閣したため風見鶏揶揄され、以後これが中曽根代名詞になった中曽根本人はこの変わり身について佐藤沖縄返還目指していたことからそれに協力することにした旨を説明している。 運輸大臣時代成田空港問題かかわり1968年昭和43年4月6日友納武人千葉県知事とともに新東京国際空港公団条件賛成派の「用地売り渡しに関する覚書取り交わし立ち会っている。「札束積めば農家なんてすぐ土地を売る」と反対派訴え耳を貸さない政治家が多い中、同年8月9日には自宅アポなし訪れた戸村一作反対同盟面会している。また、これに先立って空港公団幹部によるアポなし訪問を受け、中曽根買い取り単価引き上げて畑1反あたり一律110万円にすることにその場同意している。 防衛庁長官就任直後、「第一線級の隊員話し合いたい」と語り1970年昭和45年1月21日にはT-33練習機千歳基地訪問して食堂隊員らと食事をしている。また、防衛庁事務方権勢振るっていた海原治国防会議事務局長として新聞記者との懇談会防衛計画について批判したことが1970年昭和45年3月7日衆議院予算委員会取り上げられた際、中曽根同席する本人前に事務屋なので政策論を述べ地位ではない。事務局長というのは庶務課長、極端にいえば文書集め文書発送するお茶汲みに過ぎない」という趣旨言い放ち議場騒然とさせた。三島事件批判する声明防衛庁長官として出したが、三島に近い一部保守系団体民族派勢力右翼団体などから強く批判された。三島は死の2か月前の1970年昭和45年9月に、中曽根氏が主宰していた新政同志会青年政治研修会で「我が国自主防衛について」という講演をしている。 こうして要職経験する中で、いわゆる「三角大福中」の一角として、ポスト佐藤一人みなされるようになっていった。佐藤後継を巡る1972年昭和47年)の総裁選に際しては、野田武夫ら派内の中堅ベテラン議員福田支持派から出馬要請を受けるが、日中問題福田姿勢に不満を抱いていた派内の河野洋平始めとする若手議員田中角栄支持に傾いていたことなどから、自らの出馬取り止め田中支持回った。このことは田中福田勝利するにあたり決定的な役割果たしたが、田中買収などと後に週刊誌憶測を呼ぶことにもなった。このように少数派閥を率いるがゆえに自民党内の合従連衡腐心しただけでなく、資金調達にも苦労し殖産住宅事件起訴され東郷民安が旧制静岡高の同級生である中曽根から自民党総裁選のための資金提供頼まれ一部自社株売買行った主張したことから、1977年昭和52年)に証人喚問を受けることとなる。 第1次田中角栄内閣通商産業大臣科学技術庁長官となり、第2次内閣では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣専任となる。三木内閣時代自由民主党幹事長となり、三木おろしの際には、三木以外の派閥領袖として事実上唯一の主流派となった1976年昭和51年)、ロッキード事件への関与疑われ側近佐藤孝行逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。ここでも悪運強さ幸いしたとされる。後に“塀の上歩いて内側落ちたのが田中角栄外側落ち勲章までもらったのが中曽根”と揶揄された。同年衆院選では事件との関係から落選すら囁かれたが、辛うじて最下位当選した福田政権総務会長就いたのちは福田接近しまとめ役とされる総務会長ながら、政権ナンバー2福田潜在的ライバル大平幹事長政策とは逆方向発言繰り返す1978年昭和53年2月頃から「国民協力得て自衛隊近代化装備充実長期的な計画進めなければならない」などとタカ派主張全面に出すようになる3月成田空港管制塔占拠事件に対しては「成田過激派迫撃砲使ってでも退治せよ」と発言して総務会過激派取り締まり新規立法など強硬路線でまとめ上げ福田首相直訴した。4月武装中国漁船大挙して尖閣諸島周辺領海侵入して操業行った事件では「自衛隊出動させろ」と主張した栗栖弘臣統幕議長金丸信防衛庁長官解任された際には、問題とされた来栖発言主旨である有事法制必要論を肯定する発言をしている。 1978年自由民主党総裁選挙に「明治時代生まれお年寄りがやるべき時代ではない」と世代交代訴える形で名乗りをあげ、一時予備選挙大平上回り2位につけるという世論調査が出るほどであったが、予備選挙の結果大平が1位となり中曽根3位となる。第1次大平内閣では幹事長ポスト要求するも、逆に蔵相提示され拒否した非主流派としていわゆる四十日抗争でも反大平連合属したが、ハプニング解散の際には派内の強硬論耳を貸さず早くから本会議での造反反対するなど、三木福田とは温度差があった。そのため大平後継では本命一人だったが、当時田中角栄信頼勝ち得ておらず、総裁の座を逃した鈴木内閣では主流派となるとともに、行政管理庁長官として行政改革精力注ぎ鈴木善幸首相信頼を得る。中曽根自身蔵相ポスト希望していたものの、派の後輩渡辺美智雄にその座を奪われるという屈辱を味わう。しかし、財政再建の手段として行政改革スポットライトが当たる中、行政管理庁長官として職務励み首相就任後分割民営化などの答申をすることになる土光敏夫信頼も得ることになった鈴木内閣当時軽量ポストとされていた行管理庁長官として入閣した中曽根に向ける世間政治マスコミ視線厳しかった。更に、中曽根が三角大福中の中で唯一総理大臣自民党総裁になれず、鈴木善幸総理大臣となったことで三角大福中でさえない鈴木にさえ遅れをとった、との見方少なくなかった。特に鈴木任期末期迎えたころ、河本敏夫安倍晋太郎中川一郎総裁選への出馬態勢整える中で中曽根が、鈴木総裁再選を望むなら反対しない、と表明したときは、これで中曽根の目は将来わたって消えた、という見方横行して酷評された。中曽根地元群馬県榛名町商工会から定例行事である秋の講演講師呼ばれていた俵孝太郎講演後質疑応答で、今回中曽根発言世間評判についてどう思うかと尋ねられた際に、「鈴木首相にとって臨調方式による行政改革師匠である池田勇人提唱したのに、彼の没後放置されていた宿題であって、是非ともこれを再び軌道乗せたい思い長期的視点実力者中曽根任せた」「赤字国債の発行停止は、同志だった大平正芳果たせなかった悲願達成で、それがこの年末の予算編成経済情勢悪化実現不可能とわかった時点で、鈴木潔く身を引き後継者引き継ぐ覚悟である」「現に後継総理総裁の座を狙って手を上げているものはすべて反鈴木いいかえると反大平反田中角栄のグループ鈴木意志を継ぐ立場にない。彼らが同士討ちになれば、鈴木後継者考え存在断然有利になるわけで、そうした点を考えれば近く中曽根政権実現することは確実と思われる」と明らかにしたことで、後から中曽根本人から同意見であると手紙賛同受けている。実際に当時自民党総裁公選規定立候補必要な国会議員50人の推薦が、中曽根直系議員だけでは僅かに足りなかった。しかし、後述のように俵の予想通り反田中―反大平勢力河本安倍中川乱立する中で、旧大平・旧田中派後押しする鈴木後継中曽根支持派結束抜群で、一応自民党総裁選公選の形になったものの圧勝終わった

※この「三角大福中」の解説は、「中曽根康弘」の解説の一部です。
「三角大福中」を含む「中曽根康弘」の記事については、「中曽根康弘」の概要を参照ください。

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