田中角栄からの離反
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佐藤長期政権の跡を継いだ田中政権は、多くの国民の期待を集め、当初高い支持率を誇っていた。しかし凋落もまた急であった。田中政権の足元を揺るがしたのはまず激しいインフレであった。田中の目玉政策であった日本列島改造論が財政支出を増大させ、そのことがインフレを更に煽った。田中の更なる失点となったのが小選挙区導入問題であった。1972年(昭和47年)12月に行われた第33回衆議院議員総選挙が自民党の敗北に終わったのを見た田中は、選挙制度の変更を策した。田中は1973年(昭和48年)の通常国会を大幅に延長して小選挙区への選挙制度変更法案成立を図ったが、野党の猛反発に加えて、副総理の三木や椎名副総裁らが田中に苦言を呈するに至り、小選挙区への変更は撤回に追い込まれた。 落ち目の田中に追い討ちをかけたのがオイルショックであった。先述のように田中は副総理の三木を中東諸国に特使として派遣して石油の輸出制限を免れたが、オイルショックによる更なる物価高騰が日本を直撃した。1973年(昭和48年)11月23日、このような混乱の中、愛知揆一蔵相が死去した。田中は総裁選で激しく争った福田を後任の蔵相に任命する決断をした。福田は日本列島改造論の撤回を条件に蔵相入閣を了承し、11月25日には三木副総理兼環境庁長官、大平外相、福田蔵相、中曽根通産相と、三角大福中が勢揃いとなる内閣改造を行った。 蔵相となった福田が行った総需要抑制策が功を奏し、次第にインフレは収まってきた。田中は1974年(昭和49年)7月に行われた第10回参議院議員通常選挙に勝利して退勢を挽回させようと、猛烈な選挙活動に打って出た。その中で阿波戦争とも呼ばれるようになる激しい選挙戦が徳島で繰り広げられることになった(後述)。 第10回参議院議員通常選挙は、田中の企業ぐるみ選挙、いわゆる金権選挙の展開が国民から強い批判を浴び、自民党は改選議席を下回り敗北を喫した。選挙後の7月12日、三木は田中への直接的な批判は避けながら、党近代化に一兵卒として取り組むためと称して副総理兼環境庁長官を辞任した。16日には田中の政治姿勢を批判して福田蔵相が辞任し、更に保利茂行政管理庁長官も辞任した。 閣僚を辞任した後の三木は、自民党の党近代化と選挙制度改革など、政治改革に係わる活動を活発に行った。三木の行動の背景には田中の金権体質に対する厳しい批判があったことは否めないが、三木は田中政治批判という次元ではなく、党の近代化、政治改革という方向性で主張をしていた。これは派閥次元での抗争であるとの印象を持たれないようにするための三木の戦術でもあったが、結果として田中の後継者として三木が選ばれる際にプラスとなった。
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