田中角栄からの離反とは? わかりやすく解説

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田中角栄からの離反

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

三木武夫」の記事における「田中角栄からの離反」の解説

佐藤長政権の跡を継いだ田中政権は、多く国民期待集め当初高い支持率誇っていた。しかし凋落もまた急であった田中政権足元揺るがしたのはまず激しインフレであった田中目玉政策であった日本列島改造論財政支出増大させ、そのことインフレを更に煽った田中更なる失点となったのが小選挙区導入問題であった1972年昭和47年12月行われた第33回衆議院議員総選挙自民党敗北終わったのを見た田中は、選挙制度変更策した田中1973年昭和48年)の通常国会大幅に延長して小選挙区への選挙制度変更法案成立図ったが、野党猛反発加えて副総理三木椎名副総裁らが田中苦言を呈する至り小選挙区への変更撤回追い込まれた。 落ち目田中追い討ちをかけたのがオイルショックであった先述のように田中副総理三木中東諸国特使として派遣して石油輸出制限免れたが、オイルショックによる更なる物価高騰日本直撃した1973年昭和48年11月23日このような混乱の中、愛知揆一蔵相死去した田中総裁選激しく争った福田後任蔵相任命する決断をした。福田日本列島改造論撤回条件蔵相入閣了承し11月25日には三木副総理環境庁長官大平外相福田蔵相中曽根通産相と、三角大福中勢揃いとなる内閣改造行った蔵相となった福田が行った総需要抑制策功を奏し次第インフレ収まってきた。田中1974年昭和49年7月行われた第10回参議院議員通常選挙勝利して退勢挽回させようと、猛烈な選挙活動打って出たその中で阿波戦争とも呼ばれるうになる激し選挙戦徳島繰り広げられることになった後述)。 第10回参議院議員通常選挙は、田中企業ぐるみ選挙いわゆる金権選挙の展開が国民から強い批判浴び自民党改選議席下回り敗北喫した選挙後7月12日三木田中への直接的な批判避けながら、党近代化一兵卒として取り組むためと称して副総理環境庁長官辞任した16日には田中政治姿勢批判して福田蔵相辞任し、更に保利茂行政管理庁長官辞任した閣僚辞任した後の三木は、自民党の党近代化選挙制度改革など、政治改革係わる活動活発に行った三木行動背景には田中金権体質対す厳しい批判があったことは否めないが、三木田中政治批判という次元ではなく、党の近代化政治改革という方向性主張をしていた。これは派閥次元での抗争であるとの印象持たれないようにするための三木戦術でもあったが、結果として田中後継者として三木選ばれる際にプラスとなった

※この「田中角栄からの離反」の解説は、「三木武夫」の解説の一部です。
「田中角栄からの離反」を含む「三木武夫」の記事については、「三木武夫」の概要を参照ください。

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