田中製造所の設立と晩年
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明治6年(1873年)に、新政府の首都となった東京に移る。75歳となった明治8年(1875年)に東京・京橋区南金六町9番地(現在の銀座8丁目9番15号)に電信機関係の製作所・田中製造所を設立。 明治14年(1881年)11月7日、82歳で死去。墓所は青山霊園。久重の死後、田中製造所は養子の田中大吉と2代目が引き継いで芝浦に移転し、株式会社芝浦製作所となる。後に東京電気株式会社と合併、東京芝浦電気株式会社となり、これが現在の東芝の基礎となった。高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との言葉を残している。昭和6年(1931年)、従五位を追贈された。 田中製作所に勤め後に独立などをした人物。 沖牙太郎:大吉と同僚で久重の製作所にも出向していた。明工舎(現在の沖電気)創業者。 宮田政治郎:モリタ宮田工業創業者、宮田栄助の次男で久重の製作所に勤務。 池貝庄太郎:池貝の創業者。 石黒慶三郎:アンリツ創業者の1人。 田岡忠次郎、三吉正一など。
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