田中角栄との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 23:30 UTC 版)
小林は市長時代「産業都市づくり」を指向し、革新系の割に大型開発を進めており、これは同郷の政治家・田中角栄の政治力をフル活用することで実現につながった。初当選を飾った1966年の市長選に際して、田中に対し「知事選では、私は塚田氏に負けたんじゃなく、あんたに負けたんだ。長岡は小さいまちだから、こんどはそうはいきませんよ。こんどは絶対勝つ」と豪語し、実際勝利したことから田中の「弱み」を握る戦法に出たのである。 市議会においても、田中派議員や田中の後援組織である「越山会」との関係を重視する一方、かつては共闘相手であった共産党との距離は徐々に遠のいていった(共産党は1975年に与党を離脱)。5選を目指した1982年11月の市長選では、古巣の社会党と越山会が手を結ぶという、当時の国政においては考えられない共闘パターンも実現した。桜井新、民社党、共産党などの支援を受けた元市議の斎藤博に8千票差まで追いつめられるも5期目の当選を果たした。 当時ロッキード事件により刑事被告人であった田中を市の行事に招いたことが議会で問題視された際にも、「田中角栄さんを招待してなぜ悪い。こんごも招く」と発言していた。
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