田中角栄擁護
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落選後4年間、高齢の身を押して草の根選挙運動に走り回り、1976年にはトップ当選で返り咲く。1978年第1次大平内閣の法務大臣に就任する。法務大臣在任中にダグラス・グラマン事件が発覚した。1979年総選挙では2位当選、1980年には4位(最下位)当選と、地盤侵食・世代交代の流れには逆らえなくなった。 1981年9月28日、衆議院永年勤続表彰における謝辞演説で、古井は「いまや、民主政治のよって立つ選挙は、体力にあらずんば金力の戦いとなり、政治は、富の神の支配する領域と化した感があります」と述べ、率直な金権政治批判に翌日の新聞各紙がこぞって大きく取り上げるなど、広く反響を呼んだ。 このほか政治改革について「金のかかる選挙制度の改革」を主張していたが、一方で1982年、金権政治の象徴ともいうべき田中角栄について、総合雑誌上に「総理大臣は直接的に民間航空行政を指揮監督する権限はなく、したがってロッキード社から金銭を授受したとしても収賄罪にはあたらない」という、田中擁護とも受け取れる趣旨の時事論文を発表し(『中央公論』1982年6月号、「ロッキード裁判に思う-政治倫理と法治主義の問題」)、世間を当惑させている。 1983年に政界引退。鳥取県知事の平林鴻三(自治省出身、立候補に伴い知事を辞任)に地盤を譲り、その後は日中友好会館館長を務めた。1982年勲一等旭日大綬章、1993年東京都名誉都民。1995年2月3日午前1時41分、呼吸不全のため東京都杉並区の病院で没、92歳。葬儀と告別式は同月6日午前10時半から東京都港区の長谷寺で行われ喪主は長男が務めた。
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