田中角栄研究以降
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1976年(昭和51年)には『文藝春秋』に『日本共産党の研究』を連載。これに対して日本共産党側が組織的な反立花キャンペーンを展開して反論し、大論争に発展する。なお、立花自身は後年、この時の大論争によって学習・論争能力が鍛えられ、上記のロッキード裁判での田中擁護論者との論争に役立ったと述べている。また、総合商社、農協、中核・革マル、脳死問題などを取材した。また、『諸君!』時代に書いていたサイエンス関係のテーマにも手を広げ、1981年には『中央公論』に「宇宙からの帰還」を発表。平凡社『アニマ』に連載された「サル学の現在」、ノーベル賞受賞者利根川進との対談『精神と物質』、『科学朝日』に連載された「サイエンス・ナウ」「電脳進化論」「脳を究める」などのテーマを手がける。また、NHKやTBSなどにおいてドキュメンタリー番組制作にも携わり、連動した臨死体験などの著作もある。これらにより、1983年に菊池寛賞・文藝春秋読者賞、1987年に毎日出版文化賞、1991年に新潮学芸賞、1997年に日本文化デザイン大賞、1998年にNHK放送文化賞・司馬遼太郎賞をそれぞれ受賞した。 1995年、スタジオジブリの長編アニメーション作品『耳をすませば』で主人公の父親役を演じた。同年、東京大学先端科学技術研究センター客員教授に就任。1996年 - 1998年に東京大学教養学部で「立花ゼミ」を主催。ゼミは2005年に再開され、現在も続いている。この時期にも、画家香月泰男関連など様々な形でNHKなど放送メディアに出演した。2002年12月25日に大きな大腸ポリープがS字結腸に発見され切除するが、癌化を疑い自らを被写体として健康状態の患者からポリープが発見され切除、癌かどうかの病理検査、診断、告知までのドキュメンタリー番組の制作をNHKに提案。NHK側も同意して撮影開始。このとき、約束をしながら果たしていないことが7つほどあると判明。簡単には死ねないと感じる。一番の大仕事は1998年から連載していた『わたしの東大論』を本にする仕事であった。1999年頃には前妻が末期がんに侵され、彼女の依願で病院に同行を繰り返したりするが、1年間の闘病の末2000年に死去。この頃よりがんへの関心を深める。 2005年に東京大学大学院総合文化研究科特任教授に就任。2007年、東京大学大学院情報学環特任教授、立教大学大学院特任教授に就任。同年12月に膀胱癌の手術を受け、『文藝春秋』2008年4月号に手記「僕はがんを手術した」を発表。 2009年11月27日、鳩山由紀夫内閣の事業仕分けで大型研究プロジェクトに交付される特別教育研究経費が予算要求の縮減と判定されたのを受けて、全国各地の国立研究所長らと共に東京大学で記者会見を開き、「民主党は日本をつぶす気か」と仕分け結果を非難した。「資源小国の日本は科学技術による付加価値で生きていくしかない」と指摘した上で、「目の前で起きている出来事を見て怒りに震えている」と話した。作業風景の印象について「訳のわからない人たちが訳のわからないことを論じている」と評し、仕分け人を「バーバリアン(野蛮人)」と形容した。 2012年10月11日、ふらっと'92 20周年記念シンポジウム「日本の宇宙飛行士が語る20年の歩みと今後の展望」で、パネリストとして「ヒトはなぜ宇宙に行くのか?」というテーマでパネルディスカッションにて有人飛行に反対意見を表明。「大事故が起こる可能性があるが、有人宇宙開発を行うに足る覚悟が日本人にはまだない。失敗に耐えられる体質がない」「膨大なカネが必要だが、日本は国家として破綻状態だ。中国はすさまじい金がある。失敗に耐えられる体質がある」「成果がない。費用対効果がない」と発言した。これに対して秋山豊寛から、費用対効果などと、いつから大蔵省の役人みたいになったのかと批判される場面があった。 ドキュメンタリー番組『旧友再会』(NHK)にて梅宮辰夫と出演し、かつての住まい茨城県水戸市を訪問。2014年、『読書脳 ぼくの深読み300冊の記録』で第68回毎日出版文化賞書評賞受賞。2016年、『武満徹・音楽創造への旅』で吉田秀和賞を受賞した。 2021年4月30日、急性冠症候群のため死去。80歳没。訃報は6月23日になって主要メディアで報じられた。
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