田中製作所の設立までとは? わかりやすく解説

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田中製作所の設立まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 15:25 UTC 版)

田中久重」の記事における「田中製作所の設立まで」の解説

寛政11年9月18日1799年10月16日)、筑後国久留米現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師・田弥右衛門長男として生まれた幼名は儀右衛門幼い頃から才能発揮し五穀神社久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形新し仕掛け次々と考案して大評判となり、「からくり儀右衛門」と呼ばれるうになる20代に入ると九州各地大阪京都江戸で興行行い各地にその名を知られるうになる彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形最高傑作といわれている。 天保5年1834年)には上方上り大坂船場の伏見町大阪市中央区伏見町)に居を構えた同年折りたたみ式の「懐中燭台」、天保8年1837年)に圧縮空気により灯油補給する灯明の「無尽灯」などを考案したその後京都移り弘化4年1847年)に天文学を学ぶために土御門家入門嘉永2年1849年)には、優れた職人与えられる近江大掾」(おうみだいじょう)の称号得た。翌嘉永3年1850年)には、天動説具現化した須弥山儀(しゅみせんぎ)を完成させた。この頃蘭学者廣瀨元恭が営む「時習堂」(じしゅうどう)に入門し様々な西洋技術を学ぶ。嘉永4年1851年)には、季節によって昼夜時刻長さの違う不定時法対応して文字盤間隔全自動で動くなどの、様々な仕掛け施した万年自鳴鐘」を完成させた。 その後、再び西下して佐賀移住した久重は、嘉永6年1853年)、佐野常民薦め蘭学狂いといわれた鍋島直正治め肥前国佐賀藩の精煉方に着任し国産では日本初蒸気機関車及び蒸気船模型製造するまた、軍事面では反射炉設計改築)と大砲製造大きく貢献した文久元年1861年)には佐賀藩三重津海軍所で、藩の蒸気船電流丸」の蒸気罐製造担当となり、文久2年1862年)には幕府蒸気船千代田形蒸気罐修繕を行う。文久3年1863年)には実用的に運用され国産初の蒸気船である「凌風丸」(御召浅行小蒸気船建造中心的メンバーとなっている。これらの文献記録裏付けるように、三重津海軍所では鉄板圧着に使う鋲(リベット)が多量に出土しており、蒸気罐組立に伴う遺物可能性が高いと報告されている。元治元年1864年)には佐賀から久留米帰り久留米藩軍艦購入銃砲鋳造携わり、同藩の殖産興業等にも貢献した

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