防衛庁長官として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 03:29 UTC 版)
防衛庁長官に就任したものの、坂田は文教族であったため、安全保障政策はほぼ素人同然であった。しかし佐瀬昌盛によれば、素人のため逆に防衛問題を積極的に学ぶこととなり、専門家の意見に耳を傾け、数々の施策を講じた。例えば「国防の議論は国民的な支持、納得を得られるものでなくてはならない」として、民間人からなる有識者懇談会「防衛を考える会」を設置、久保卓也防衛事務次官と共に、「防衛計画の大綱(防衛大綱)」を策定、防衛力整備の考えとして「基盤的防衛力」構想を根幹に置く路線を決定した。 同様に議論の透明性を確保するため、従来予算・外交委員会などで散発的に審議されていた防衛問題について、国会に専門で審議を担当する委員会の設置を主張した。また、日米防衛協力の具体化のため、政治レベルでの防衛協議を開始したことでも知られる(このような日米協力路線は福田政権で成立する「日米防衛協力のための指針(旧ガイドライン)」の原型となった)。ベレンコ中尉亡命事件の際には「作業は、たとえミグ屋(アメリカのミグ解体専門チーム)の手を借りることとなっても、イニシアティヴだけは、しっかり日本側で取るべし」と当時の角田義隆航空幕僚長に指示、ミグ25を完全に解体して調べ上げ、また元のように組み立て直してソ連に返還した。防衛庁長官連続在任記録1位(746日間)。
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