よんじゅうにち‐こうそう〔よんジフにちカウサウ〕【四十日抗争】
読み方:よんじゅうにちこうそう
昭和54年(1979)に自民党内で起こった約40日間におよぶ派閥間の争い。同年10月7日の衆院選敗北の責任をめぐって、主流派の大平派・田中派と反主流派の福田派・三木派・中曽根派などが激しく対立した。
[補説] 選挙戦当初に大平正芳首相が一般消費税導入を訴え、世論の反発を招いたことから、自民党は過半数割れを喫し敗北。首相の退陣を求める反主流派に対し、主流派は続投で譲らず、自民党は首相候補を一本化できないまま、大平と反主流派が推す福田赳夫の2人が首班指名選挙に出る異例の事態となった。首相には大平が再選されたが、組閣は難航し、抗争は11月半ば過ぎまで続いた。両者の対立感情は抗争後も解消されず、翌年5月に野党が、否決を見越して内閣不信任案を提出した際、自民党反主流派が本会議を欠席し、不信任案は可決。大平内閣は衆議院を解散し(ハプニング解散)、初の衆参同日選挙に打って出たが、選挙中に大平が心筋梗塞による心不全で急逝。自民党は衆参両院で安定多数を確保する大勝を収めた。
四十日抗争
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四十日抗争(よんじゅうにちこうそう)は、1979年(昭和54年)に起きた自由民主党内の派閥抗争。自民党史上最大の危機といわれた。
注釈
- ^ 福田は、総裁任期を一期つとめて大平に政権を譲るという大福密約を反故にして総裁選に現職出馬した経緯がある。また、かつて、福田を後継者に据えようとしていた佐藤栄作は、内閣改造を条件として前尾繁三郎の総裁選での支持を取り付けたが、当選後にその約束を反故にし、これにより派内の求心力を失った前尾を追って大平が宏池会の会長に就任している。
- ^ 伊藤昌哉は両院議員総会は開かれなかったとしている[10]。
- ^ 灘尾は大平退陣の受け皿の一人として浮上していたが、議長に選ばれたことで灘尾の後継は封じられることとなった。
- ^ 11月3日は祝日の文化の日、4日は日曜日で、ともに国会の休日であった。
- ^ a b c d 第1回投票では福田、決選投票では大平または無効票を投じた議員
- ^ 参議院議長とは異なり、衆議院議長は内閣総理大臣指名選挙で投票しない慣例があるというわけではない。
出典
- ^ 『大平正芳』 249頁。
- ^ 『自民党戦国史』中巻 第二部 1 戦う決意 p.117
- ^ a b 『大平正芳』 251頁。
- ^ 『大平正芳』 250頁。
- ^ 戸川猪佐武『小説吉田学校』第7巻
- ^ 『自民党戦国史』 中巻 第二部 6 調停付かず pp.242-248
- ^ [1]
- ^ 浜田幸一『YUIGON もはや最期だ。すべてを明かそう。』ポプラ社、2011年5月、61頁。ISBN 978-4-591-12446-8。
- ^ a b 昭和54年11月 中日ニュース No.1347 3「大平首相、再指名される」 - YouTube
- ^ a b 『自民党戦国史』 中巻 第二部 7 福田首班、ついにならず p.258
- ^ 『大平正芳』 254頁。
- ^ a b 衆議院議事録 第89回国会 本会議 第2号 昭和五十四年十一月六日(火曜日)
- ^ a b 参議院議事録 第89回国会 本会議 第2号 昭和五十四年十一月六日(火曜日)
- ^ 『大平正芳』 255頁。
- ^ a b 『大平正芳』 256頁。
- ^ 会派別所属議員数の変遷 (参議院関連資料集)参議院
- ^ 衆議院規則第18条第3項、参議院規則第20条第3項
- 1 四十日抗争とは
- 2 四十日抗争の概要
- 3 脚注
固有名詞の分類
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