衆院選での敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 16:43 UTC 版)
1979年の衆院選で自民党は248議席しか獲得できず、前回1976年の衆院選の獲得議席249議席を1議席下回った。1976年当時党総裁だった三木武夫は選挙結果を受け辞任に追い込まれており、また前福田内閣時には議席の積み増しを見込んでの福田赳夫による解散への動きを大平派と田中派が阻止していただけに、1978年の総裁選挙で現職の福田を破って総理総裁に就任した大平正芳への責任を問う声が当然のごとく上がった。 しかし大平は、田中角栄の支えもあり、続投を表明した。そのため、大平政権下で反主流派となっていた福田派・中曽根派・三木派・中川グループは辞任要求を強めた。主流派の大平派と田中派は中道政党との連立政権を模索し、反主流派は最終手段として自民離党、新党結成を画策するなど、党内は修復不可能なまでに分裂した。 自民党は首相候補が一本化できないために、国会を開会することができなかった。日本国憲法第54条の規定による国会開会の期限が迫ってきたので、10月30日に特別国会を開会するも、開会日は首班指名投票なしで散会という異常事態となる。
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