衆院選で落選
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1980年(昭和55年)2月、「岡崎から代議士を」の掛け声のもと政治団体「明日の岡崎をきずく会」が結成される。5月16日、大平正芳首相は内閣不信任決議案可決を受けて衆議院解散を決定。5月19日、「明日の岡崎をきずく会」は内田に旧愛知4区からの出馬を要請。翌5月20日、正式に出馬表明。 旧愛知4区には1946年(昭和21年)から当選11回を数える福田派長老格の中野四郎がいた。安倍晋太郎は千代田区永田町の山王グランドビル9階の事務所から岡崎に電話した。「もう一度考え直せませんか」と、内田を擁立した内田喜久市長の説得にかかった。仲谷義明愛知県知事も「今からでも遅くはない。今度だけは見送りなさい」と喜久をなだめる。しかし返事は「全部動き出しております。もう止めることも、戻ることもできません」の一点張りだった。仲谷は執拗に接触を続け、今度は自宅に電話をかけると喜久の妻、美恵子が出た。「奥さん、大変なことが待ち受けています。やめるなら今です。自民党が大変な雰囲気になっていますから」。果たして内田陣営は仲谷の予言どおりの事態となるが、美恵子には「大変なこと」の意味は測りかねた。 1980年(昭和55年)5月23日、岡崎市内に本拠を置けない自民党の中野四郎、稲垣実男、浦野烋興は「三派連合」を組み、形の上だけでも無所属の内田に対抗した。6月2日、衆院選公示。白のブレザー姿の内田は大樹寺と龍城神社で必勝祈願をしたのち、鴨田町広元の選挙事務所で開かれた出陣式に臨んだ。陣営は若さと清新さをアピールするため、街宣活動でも内田に白のブレザーを着させ続けた。6月9日深夜、選対委員長の中根薫県議に、滝町に住む後援者から「今、県警の刑事2人が選挙違反のことで訪ねてきた」との電話が入る。内田喜久が四方に金をばらまいていたことは警察に筒抜けであった。中根は岡崎警察署の牧野卓朗署長を訪ね、探りを入れるが、牧野は「ま、いかんことはいかんですから」とだけ言うと押し黙った。中根は選対幹部にも候補者本人にもこのことは伏せたままにした。 選挙終盤、新聞各社の情勢調査は、その多くが内田の「当落線上」を報じていたが、6月18日の立会演説会での失言が地元票を大きく減らすこととなる(後述)。毎朝選挙事務所に出向いていた岡崎商工会議所副会頭の加藤庄一は、投票日の6月22日、「1万―1万5千票足りず」と手帳に書き込んだ。6月23日、開票。加藤の読みどおり、内田は4位当選の稲垣に1万4千余票の大差をつけられ落選。同日、内田喜久市長の義弟で私設秘書のKは東名高速道路に乗り、姿をくらました。内田喜久は6月27日に買収容疑で逮捕され、6月30日に辞職した。大阪市中之島の公園で野宿するなど失踪を続けていたKは7月1日に岡崎署に出頭し、逮捕された。7月14日までに、中根薫県議と岡崎市議会議員25人が逮捕された。7月18日、内田喜久の義弟で給排水設備工事会社経営者のSが、中根薫の自宅に保管してあった500万円を別の場所に移し替えたとして、証拠隠滅の疑いで逮捕された。 同年8月17日、元自民党県議の中根鎭夫が岡崎市長に初当選。逮捕された市議は一人を除いていずれも辞職を拒んだため、8月31日に「リコールを進める市民の会」が結成される。9月3日の市議会臨時会で自主解散決議案が否決されると、選管は解散請求代表者証明書の交付と告示を行った。署名運動は燎原の火のごとく市内全域に広がり、短期間で成立に必要な法定数(有権者の3分の1以上、岡崎市は5万7,892人)を超える署名が集まった。市議会は9月17日、ついに自主解散に追い込まれた。11月、内田はSの給排水設備工事会社に勤め始めた。
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