衆院議長就任・福田政権での活動
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「保利茂」の記事における「衆院議長就任・福田政権での活動」の解説
同年12月5日に行われた第34回衆議院議員総選挙での敗北の責任をとって三木が退陣し、12月24日に福田赳夫内閣が発足。保利は衆議院議長に就任した(在任期間・1976年12月24日 - 1979年2月1日)。在任中は話し合い重視の円満な国会運営を心がけた。野党も保利の重厚な人柄に敬意を払い、保利の議長在任中は与野党伯仲状況だったにもかかわらず、国会運営は極めてスムーズに運んだ。 その後、福田首相の周辺から衆議院の解散論が流れるようになる。これは大福一本化の合意から逸脱するものであり、保利は解散論をけん制するため「解散権の恣意的な乱用は好ましくない」と繰り返し述べた。解散論は1978年春を過ぎるころには下火になった。 保利が福田首相の決断を促してきた懸案の日中平和友好条約の締結についても、同年8月12日に調印に至り、保利の残りの使命は同年11月の自由民主党総裁選挙で福田から大平への円満なバトンタッチを見届けるだけであったが、大福2年交代の密約は守られることなく福田は続投を表明した。告示の11月1日、福田と大平が出馬のあいさつに訪れた。福田に対して保利は「私は2年前のことに責任を感じている」と厳しい表情で対応したが、大平には温かく激励した。保利はこの2年間、幹事長として黙々と福田政権に協力してきた大平を高く評価していた。
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