福田派
ふくだ‐は【福田派】
福田派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:48 UTC 版)
十日会(岸信介派)から分裂した、池田勇人(宏池会)の「所得倍増計画」に異を唱える福田赳夫を中心として1962年に結成された党風刷新連盟(結成当初は党風刷新懇話会)が起源。1970年11月に時の首相・佐藤栄作に勧められ、派閥「紀尾井会」(福田派)として正式に旗揚げされた。 1972年まで7年に及んだ佐藤内閣の後継をめぐるいわゆる「ポスト佐藤」の争いにおいて、佐藤における意中の人は福田であったが、政権末期に田中の猛追を受け、結局総裁選で敗れた。この挫折を機に、領袖福田のもと、七日会(後の木曜クラブ、田中派)と「角福戦争」と呼ばれる激しい派閥抗争を繰り広げたが、福田自身が「派閥解消」論者であり、必ずしも派閥活動に積極的でなかったこともあって伸び悩み、1976年に悲願の福田赳夫政権誕生にこぎ着けるものの2年後には大平・田中連合の前に総裁選で敗北した。 1972年、総裁選で敗れた直後に周山クラブ(保利グループ)と春秋会(園田派)を糾合し「八日会」へと名称変更、1976年末、福田赳夫内閣の発足にあたり派閥解消を提唱、率先して八日会を解散したが、福田退陣後に再結成の機運が高まり、1979年1月24日に清和会を結成した。出典は、東晋の元帝が詔で諸葛恢の統治を「政清人和(清廉な政治でおのずから人民を穏やかにした)」と称賛した故事による(『晋書』諸葛恢伝)。この清和会は略称ではなく正式名称である。1984年に自由革新同友会(石原派・旧中川派)を吸収する(古屋圭司の養父・古屋亨は先行離脱し福田派に移籍していた)。
※この「福田派」の解説は、「清和政策研究会」の解説の一部です。
「福田派」を含む「清和政策研究会」の記事については、「清和政策研究会」の概要を参照ください。
「福田派」の例文・使い方・用例・文例
- 福田派のページへのリンク