退陣後
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近衛文麿の新体制運動に関しては皇道派軍人とともに批判的な立場をとった(二・二六事件以降、皇道派勢力は弱体化していたが、この時期には陸軍の反主流派としていくらか勢力を回復していた)。これは観念右翼の総帥であった平沼が、新体制運動をナチスドイツの模倣と見做し反発していたからである。後述のように平沼は、ナチスを社会主義思想の一種として軽蔑していた。 1940年、11月の下旬に新体制推進派から距離を置くことを考え始めた近衛は、第2次近衛内閣で平沼を無任所国務相として閣内に迎えた後、新体制推進派を閣外に追放、皇道派軍人の大物である柳川平助を司法相、平沼を内相とした。これは近衛の観念右翼への屈服、新体制運動からの後退を意味するものであった。 内相に就任した平沼は財界から批判のあった経済新体制要綱を骨抜きにし、新体制推進派から協力的であるとして賞賛されていた矢野兼三富山県知事を休職処分したのを手始めに内務省の人事を一新、この原案を作成した企画院の官僚らを共産主義運動・人民戦線運動にかかわったものとして逮捕を指令し(企画院事件)、その余波で岸信介商工次官を辞職に追い込んだ。こうして平沼はナチス型統制経済を目指す官僚グループを次々に追放した。また平沼は大政翼賛会を公事結社として政治活動を禁じ、有馬頼寧らを辞職させ、新体制推進勢力をさらに後退させる。また平沼は米国駐日大使であるジョセフ・グルーらと面会して、悪化していた米国との関係修復を目指している。「親ドイツ色」を中央政界から取除くことがこの時期の平沼の行動目的であった。 このような平沼の行動は革新勢力の批判を浴び、ドイツ・ソ連から帰国した松岡洋右外相は平沼を強く非難し、松岡と平沼は閣内で対立した。 しかし、松岡は陸海軍とも対立し天皇からも不興を買って、松岡を排除するためだけに第3次近衛内閣が組閣され松岡洋右は閣外に追放される。 1941年の第3次近衛内閣においては平沼は内閣参議・無任所国務大臣となり、自分の代わりとして田辺治通を内務大臣に据えた。こうして平沼は対米関係修復を目指す第3次近衛内閣での実力者と目され、右翼団体勤王まことむすびから狙撃される。弾丸6発を被弾する重傷だったが一命をとりとめた。開戦の賛否を討議する開戦直前の重臣会議では、平沼は開戦に消極的な見解を表明した。 戦時下では重臣として岡田啓介・近衛文麿・若槻禮次郎らとともに東條内閣倒閣に活躍。内務省、検察、右翼勢力などに影で大きな権力をもつ平沼の存在は、和平派重臣にとって大きな力であり、平沼の邸宅で反東條派の重臣の秘密会合が開かれることもあった。 東條内閣辞職後の重臣会議では「敬神家」として小磯國昭を推し、小磯内閣辞職後には他の重臣とともに鈴木貫太郎を推した。 1945年4月には首相となった鈴木貫太郎の後をついで枢密院議長となった。 しかし平沼は戦時下、一貫して和平派重臣だったかというと必ずしもそうではなく、彼は和平派と協調するかと思えば降伏反対を唱えることもあり、天皇への上奏の折には明確な主張を見せないなどその立場は一貫していない。たとえば枢密院議長であった平沼は、6月8日の御前会議において次のような意見を述べている。「戦況我に不利なる場合には民心弛緩し易きものなるを以て此点に慎を要す。民心弛緩に就いては其の根絶を期するは不可能なるも之に対する制圧の処置を講ずること即ち権力を以て之に臨むこと肝要なり。乍然権力による制圧にては不良思想の表面化を防止するにすぎず。国民思想の根本を矯正するには之と併用して教化の力(洗脳)に依らざるべからず」(外務省編纂『終戦史録』昭和27年、363頁) 広島へ原爆投下・ソ連参戦直後、ポツダム宣言受諾を決定する御前会議のメンバーであったが、会議の直前、和平派の米内光政海相は「平沼男爵は和戦どちらにつくか、危ないぞ、大丈夫か」と心配している。この御前会議では平沼は曖昧な表現ながらポツダム宣言受諾側に一票を投じ米内の心配は杞憂におわった。 しかし、東郷茂徳外相が受諾案において天皇の扱いを「国法上の地位を変更する要求を包含し居らざる了解の下受諾する」としていたことに異議を唱え、「国家統治の大権に変更を加うるが如き要求は之を包含し居らざる」に変更させ、連合国から当初の受諾案を拒絶される結果も招いた。 こうした曖昧な態度は『昭和天皇独白録』で昭和天皇に厳しく批判され「結局、二股かけた人物というべきである」と酷評されている。世論全体や強硬派からは和平推進派とみなされており、このため終戦決定に反発する横浜警備隊長であった佐々木武雄陸軍大尉を隊長とした横浜高等工業学校の学生らによって構成された「国民神風隊」のテロリズムによって終戦未明、自宅を焼き討ちされた(宮城事件)。平沼も鈴木貫太郎同様に二度も強硬派に命を狙われかけた。
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退陣後
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2006年に自ら設立したクオンタムリープ株式会社の代表取締役として、ソニー時代から培ってきた国内外の人的ネットワークを活用しながら、国内外の上場企業の社外役員やアドバイザーとして、公式・非公式に次世代ビジネスや若手リーダーの育成に努めていた。 2022年6月2日、肝不全のため東京都内の病院で死去。84歳没。
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退陣後
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幸い脳梗塞の症状は軽く、若干の後遺症は残ったものの、石橋はまもなく政治活動を再開するまでに回復した。 1959年(昭和34年)9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であり、日本政府とは一切関係ないものとする」と牽制されながらも中華人民共和国を訪問した。前首相・衆議院議員とはいえ政府の一員ではない石橋は、訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処がつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談が実現した。冷戦構造を打ち破り、日本がその懸け橋となる日中米ソ平和同盟を石橋は主張した。この主張は、まだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意した。周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束した。「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。1960年(昭和35年)、大陸中国との貿易が再開した。この声明が後に日中共同声明に繋がったともいわれる。 その後も少数派閥ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には、本会での議決を欠席するなどして、批判的な態度をとり自民党内ハト派の重鎮として活躍した。 1963年の第30回衆議院議員総選挙で自民党は河野一郎の元秘書官の木部佳昭を新たに公認。定数5の選挙区を自民党公認候補者4人が争い、石橋は次点で落選。そのまま政界を引退した。 1966年2月、手足に麻痺を感じ聖路加病院に入院、主治医は日野原重明が務めた。同年11月の自民党幹部・大久保留次郎の葬儀に参列したのを最後に外出記録はない。1968年3月には立正大学学長を退き、一切の社会的活動から引退した。1970年2月にも再び肺炎で聖路加病院に入院し、その後は鎌倉の娘宅や新宿区中落合の自宅で療養することになる。 1967年10月20日に吉田茂が死去し、当時存命中の内閣総理大臣経験者としては最年長となる。 1971年7月にはアメリカ大統領の特使ヘンリー・キッシンジャーが訪中し周恩来と会談すると、米中対話を支持するメッセージを発表している。また、翌1972年7月には田中角栄内閣が成立し日中国交正常化への機運が高まっていたが、田中は訪中以前に中落合の石橋宅を訪れており、田中訪中の結果、日中国交正常化が成立すると、石橋はこれを祝賀するメッセージを発表している。 その後は病状が悪化し、1973年4月25日午前5時に脳梗塞のため自宅で死去。享年90(満88歳没)。死去時点で内閣総理大臣経験者としては最年長であった(石橋の死去に伴い最年長は片山哲となる。最古参は東久邇宮稔彦王のまま)。
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退陣後
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2007年5月10日、ブレアは地元セッジフィールドでの支持者らを前にした演説で、労働党党首を辞任すること、同年6月27日、エリザベス2世に首相としての辞表を提出することを発表した。 ブレアのこの演説から約1週間後には、ゴードン・ブラウンが次期労働党党首となることが決まり、2007年6月24日開催の臨時党大会で正式にブラウンが党首に選出されたことにより2007年6月27日に首相を退陣し、庶民院議員も辞職した。なお、副党首で副首相を務めてきたジョン・プレスコットもブレアと同時に辞任するほか、ジョン・リード内務大臣、ゴールドスミス司法長官ら側近も退陣した。 退陣後もリスボン条約の発効により設置される初代「欧州連合(EU)大統領」の筆頭候補にフランスのサルコジ大統領などから推薦され注目を集めたが、EU主要国から反対され実現しなかった。また、世界経済フォーラム年次総会などを通じ、環境問題などに対する積極的な発言を続けている。ほかに2008年にイェール大学経営大学院、神学大学院にてフェローとして教壇に立った。 2008年3月14日に来日して当時の福田康夫首相と会談し、閣僚級会合で基調講演を行った。TBS系列「筑紫哲也NEWS23」の17日放送の回に出演。日本の市民100人とタウンミーティング形式で直接対話を行った。 2008年8月には北京オリンピックの開会式に出席した。 2009年にイスラエルのダン・デイヴィッド賞を受賞。 2010年1月29日、2003年のイラク戦争参戦に関する独立調査委員会の公聴会で証人喚問された。ブレアは参戦を強く正当化し、サッダーム・フセインイラク大統領(戦争当時)を排除したことは後悔していないと語った。結局、イラクで大量破壊兵器が発見されることはなかったため、2002年9月の「イラクは45分間で大量破壊兵器を発射できる」とした報告などで、参戦を正当化するための情報操作が行われたのではないかとの疑念が持ち上がったが、ブレアはこの情報は「訂正されるべき」だったと認めた。 同年9月1日、回顧録「ジャーニー」を出版。 2011年10月24日にはカザフスタン共和国外務省より、同国政府の経済改革担当顧問への就任が発表された。 2013年9月7日と2014年10月17日に来日し、世界オピニオンリーダーズサミットにスペシャルゲストとして参加した。 2015年9月には中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典に出席した。 2019年12月、総選挙における労働党の敗北を受け、「労働党はそのわがままによって、結果的にブレグジットを手助けしてしまった」とジェレミー・コービンら執行部を批判した。これに対して、党内におけるコービン擁護派のリチャード・バーゴンは、「ブレア氏の発言は物事を簡略化しすぎている」と述べたとされるが、その後の労働党への支持低迷はこの時のブレアの指摘の正しさをかえって裏付けることになった。 2022年、ガーター勲章受章。しかし左派活動家や反戦運動家らが、イラク戦争への参戦を決めたブレアには死者に対する「個人的な責任」があると指摘。叙勲に反対する署名運動を展開し70万人以上の賛同を得た。一方で労働党の現党首であるキア・スターマーは「ボリス・ジョンソンは褒章を受ける権利がないと思う」が、サー・トニーはナイト爵を「得るに値する」人物だと述べた。
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