退陣後とは? わかりやすく解説

退陣後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 13:58 UTC 版)

平沼騏一郎」の記事における「退陣後」の解説

近衛文麿新体制運動に関して皇道派軍人とともに批判的な立場をとった(二・二六事件以降皇道派勢力弱体化していたが、この時期には陸軍反主流派としていくらか勢力回復していた)。これは観念右翼総帥であった平沼が、新体制運動ナチスドイツ模倣見做し反発していたからである。後述のように平沼は、ナチス社会主義思想一種として軽蔑していた。 1940年11月下旬新体制推進派から距離を置くことを考え始めた近衛は、第2次近衛内閣平沼無任所国務相として閣内迎えた後、新体制推進派を閣外追放皇道派軍人大物である柳川平助司法相、平沼内相とした。これは近衛観念右翼への屈服新体制運動からの後退意味するものであった内相就任した平沼財界から批判のあった経済新体制要綱骨抜きにし、新体制推進派から協力的であるとして賞賛されていた矢野兼三富山県知事休職処分したのを手始め内務省人事一新、この原案作成した企画院官僚らを共産主義運動人民戦線運動かかわったものとして逮捕指令し企画院事件)、その余波岸信介商工次官辞職追い込んだ。こうして平沼ナチス統制経済目指す官僚グループ次々追放した。また平沼大政翼賛会公事結社として政治活動禁じ有馬頼寧らを辞職させ、新体制推進勢力をさらに後退させる。また平沼米国駐日大使であるジョセフ・グルーらと面会して悪化していた米国との関係修復目指している。「親ドイツ色」を中央政界から取除くことがこの時期平沼行動目的であったこのような平沼行動革新勢力批判浴び、ドイツ・ソ連から帰国した松岡洋右外相平沼強く非難し松岡平沼閣内対立した。 しかし、松岡陸海軍とも対立し天皇からも不興買って松岡排除するためだけに第3次近衛内閣組閣され松岡洋右閣外追放される1941年第3次近衛内閣においては平沼内閣参議無任所国務大臣となり、自分代わりとして田辺治通内務大臣据えた。こうして平沼対米関係修復目指す第3次近衛内閣での実力者目され右翼団体勤王まことむすびから狙撃される。弾丸6発を被弾する重傷だったが一命とりとめた開戦賛否討議する開戦直前重臣会議では、平沼開戦消極的な見解表明した戦時下では重臣として岡田啓介近衛文麿若槻禮次郎とともに東條内閣倒閣活躍内務省検察右翼勢力などに影で大きな権力をもつ平沼存在は、和平派重臣にとって大きな力であり、平沼邸宅で反東條派の重臣秘密会合が開かれることもあった。 東條内閣辞職後の重臣会議では「敬神家」として小磯國昭推し小磯内閣辞職後には他の重臣とともに鈴木貫太郎推した1945年4月には首相となった鈴木貫太郎の後をついで枢密院議長となった。 しかし平沼戦時下一貫して和平派重臣だったかというと必ずしもそうではなく、彼は和平派協調するかと思えば降伏反対唱えることもあり、天皇の上奏の折には明確な主張見せないなどその立場一貫していない。たとえば枢密院議長であった平沼は、6月8日御前会議において次のような意見述べている。「戦況我に不利な場合には民心弛緩し易きものなるを以て此点に慎を要す民心弛緩に就いて其の根絶期する不可能なるも之に対す制圧処置講ずること即ち権力を以て之に臨むこと肝要なり。乍然権力による制圧にては不良思想表面化防止するにすぎず。国民思想根本矯正するには之と併用して教化の力(洗脳)に依らざるべからず」(外務省編纂終戦史録』昭和27年363頁) 広島原爆投下ソ連参戦直後ポツダム宣言受諾決定する御前会議メンバーであったが、会議直前和平派米内光政海相は「平沼男爵和戦どちらにつくか、危ないぞ、大丈夫か」と心配している。この御前会議では平沼曖昧な表現ながらポツダム宣言受諾側に一票投じ米内の心配は杞憂おわった。 しかし、東郷茂徳外相受諾案において天皇扱いを「国法上の地位変更する要求包含し居らざる了解の下受諾する」としていたことに異議唱え、「国家統治大権変更加うるが如き要求は之を包含し居らざる」に変更させ、連合国から当初受諾案を拒絶される結果招いたこうした曖昧な態度は『昭和天皇独白録』で昭和天皇厳しく批判され結局二股かけた人物というべきである」と酷評されている。世論全体強硬派からは和平推進派とみなされており、このため終戦決定反発する横浜警備隊長であった佐々木武雄陸軍大尉隊長とした横浜高等工業学校学生らによって構成された「国民神風隊」のテロリズムによって終戦未明自宅焼き討ちされた(宮城事件)。平沼鈴木貫太郎同様に二度強硬派に命を狙われかけた。

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退陣後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 10:38 UTC 版)

出井伸之」の記事における「退陣後」の解説

2006年に自ら設立したクオンタムリープ株式会社代表取締役として、ソニー時代から培ってきた国内外人的ネットワーク活用しながら、国内外の上企業社外役員アドバイザーとして、公式・非公式に次世代ビジネス若手リーダー育成努めていた。 2022年6月2日肝不全のため東京都内病院死去84歳没。

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退陣後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 23:01 UTC 版)

石橋湛山」の記事における「退陣後」の解説

幸い脳梗塞症状軽く若干後遺症残ったものの、石橋はまもなく政治活動再開するまでに回復した1959年昭和34年9月、岸より「同盟国アメリカ意思反す行為であり、日本政府とは一切関係ないものとする」と牽制されながらも中華人民共和国訪問した前首相衆議院議員とはいえ政府一員ではない石橋は、訪問してから数日はなかなか首脳会え目処がつかなかったが、交渉苦労の末、同月17日周恩来首相との会談実現した冷戦構造打ち破り日本がその懸け橋となる日中米ソ和同盟を石橋主張した。この主張は、まだ国連代表権持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案同意した。周は台湾中華民国)に武力行使をしないと石橋約束した。「日本中国両国民が手を携えて極東世界平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明発表した1960年昭和35年)、大陸中国との貿易再開したこの声明が後に日中共同声明繋がったともいわれるその後少数派閥ながら石橋派領袖として影響力持ち、岸が主導した日米安保条約改定には、本会での議決欠席するなどして、批判的な態度をとり自民党ハト派重鎮として活躍した1963年第30回衆議院議員総選挙自民党河野一郎元秘書官の木部佳昭新たに公認定数5の選挙区自民党公認候補者4人が争い石橋次点落選そのまま政界引退した1966年2月手足麻痺感じ聖路加病院入院主治医日野原重明務めた同年11月自民党幹部大久保留次郎葬儀参列したのを最後に外出記録はない。1968年3月には立正大学学長退き一切社会的活動から引退した1970年2月にも再び肺炎聖路加病院入院しその後鎌倉の娘宅や新宿区中落合自宅療養することになる。 1967年10月20日吉田茂死去し当時存命中の内閣総理大臣経験者としては最年長となる。 1971年7月にはアメリカ大統領特使ヘンリー・キッシンジャー訪中周恩来会談すると、米中対話支持するメッセージ発表している。また、1972年7月には田中角栄内閣成立し日中国交正常化への機運高まっていたが、田中訪中以前中落合石橋宅を訪れており、田中訪中結果日中国交正常化成立すると、石橋はこれを祝賀するメッセージ発表している。 その後病状悪化し1973年4月25日午前5時に脳梗塞のため自宅死去享年90(満88歳没)。死去時点内閣総理大臣経験者としては最年長であった石橋の死去に伴い最年長片山哲となる。最古参東久邇宮稔彦王のまま)。

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退陣後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 18:39 UTC 版)

トニー・ブレア」の記事における「退陣後」の解説

2007年5月10日ブレア地元セッジフィールドでの支持者らを前にした演説で、労働党党首辞任すること、同年6月27日エリザベス2世首相としての辞表提出することを発表したブレアのこの演説から約1週間後には、ゴードン・ブラウン次期労働党党首となることが決まり2007年6月24日開催臨時党大会正式にブラウン党首選出されたことにより2007年6月27日首相退陣し、庶民院議員辞職した。なお、副党首副首相務めてきたジョン・プレスコットブレア同時に辞任するほか、ジョン・リード内務大臣ゴールドスミス司法長官側近退陣した。 退陣後もリスボン条約発効により設置される初代欧州連合EU大統領」の筆頭候補フランスサルコジ大統領などから推薦され注目集めたが、EU主要国から反対さ実現しなかった。また、世界経済フォーラム年次総会などを通じ環境問題などに対す積極的な発言続けている。ほかに2008年イェール大学経営大学院神学大学院にてフェローとして教壇立った2008年3月14日来日して当時福田康夫首相会談し閣僚級会合基調講演行ったTBS系列筑紫哲也NEWS23」の17日放送の回に出演日本市民100人とタウンミーティング形式直接対話行った2008年8月には北京オリンピックの開会式出席した2009年イスラエルダン・デイヴィッド賞受賞2010年1月29日2003年イラク戦争参戦に関する独立調査委員会公聴会証人喚問された。ブレア参戦強く正当化し、サッダーム・フセインイラク大統領戦争当時)を排除したことは後悔していないと語った結局イラク大量破壊兵器発見されることはなかったため、2002年9月の「イラク45分間で大量破壊兵器発射できる」とした報告などで、参戦正当化するための情報操作が行われたのではないかとの疑念持ち上がったが、ブレアはこの情報は「訂正されるべき」だったと認めた同年9月1日回顧録ジャーニー」を出版2011年10月24日にはカザフスタン共和国外務省より、同国政府経済改革担当顧問への就任発表された。 2013年9月7日2014年10月17日来日し世界オピニオンリーダーズサミットスペシャルゲストとして参加した2015年9月には中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典出席した2019年12月総選挙における労働党敗北を受け、「労働党はそのわがままによって、結果的にブレグジット手助けしてしまった」とジェレミー・コービン執行部批判した。これに対して党内におけるコービン擁護派のリチャード・バーゴンは、「ブレア氏の発言物事簡略化しすぎている」と述べたとされるが、その後労働党への支持低迷はこの時のブレア指摘正しさをかえって裏付けることになった2022年ガーター勲章受章。しかし左派活動家反戦運動家らが、イラク戦争への参戦決めたブレアには死者対する「個人的な責任」があると指摘叙勲反対する署名運動展開し70万人上の賛同得た一方で労働党の現党首であるキア・スターマーは「ボリス・ジョンソン褒章を受ける権利がないと思う」が、サー・トニーはナイト爵を「得るに値する人物だと述べた

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