大統領退陣後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 17:11 UTC 版)
「マヒンダ・ラージャパクサ」の記事における「大統領退陣後」の解説
ラージャパクサ政権からシリセーナ政権への移行は平和的に行われた。一方で2015年1月に、選挙戦の終盤に敗色濃厚が伝えられたラージャパクサが、開票前に軍や警察にクーデターを要請したという疑惑や、政権時代に進められたロータス・タワー、マッタラ・ラージャパクサ国際空港、ハンバントタ港、高速道路の建設といった大規模プロジェクトについても、汚職疑惑が取り沙汰された。また、インフラストラクチャー整備の資金は外国からの有償資金援助で賄われたため、スリランカの国家債務が急激に増加、2018年には、完済までに400年もかかるという「借金漬け外交」に陥る状況を生み出した。 2015年8月の国会選挙においては、UPFAの事実上のリーダーとして復権を試みるも敗北、議員としての当選は果たしたものの目標としていた首相就任は断念した。SLFPの主導権もシリセーナに奪われたが、その後もSLFP内のラージャパクサ派を通じて影響力を保ち、さらに2018年2月の地方自治体選挙では政権への批判票を集める形で自身が主導するスリランカ人民戦線 (SLPP) を大勝させるなど、再び政治の表舞台へと返り咲いた。
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大統領退陣後
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「ホルヘ・ラファエル・ビデラ」の記事における「大統領退陣後」の解説
退陣後の1983年に、ラウル・アルフォンシン政権が成立した後、過去の軍事政権における関係者に対する裁判が始まった。1985年に、ビデラは殺人·拉致·拷問などに関与した罪で終身刑を言い渡されたが、1990年にカルロス・メネム大統領の恩赦により釈放された。 1998年に、汚い戦争の最中に幼児誘拐を行っていたことと人民革命軍の指導者の失踪に関わっていたという2つの容疑で、再び起訴され、有罪判決を受け刑務所へ収監されることとなったが、収監から38日後に高齢を理由に自宅軟禁に減免されることとなった。 2003年に当選したネストル・キルチネル大統領は、就任後ビデラ政権の不法行為を全て清算する作業を始め、「ビデラは合法的な大統領ではなかった」との声明を発表したほか、ビデラの肖像を全ての軍学校から取り除き、軍事政権下での犯罪行為も多く起訴されることとなった。 2010年12月22日、アルゼンチンの裁判所はビデラが「人道に対する罪」を犯したとして終身刑の判決を言い渡した。判決では、ビデラが軍政トップとして、政治犯に対する拷問や殺害を直接命じたとその責任を指摘した。ビデラ自身は公判の中で、マルクス主義者による革命を防ぐための通常の治安措置だとし、当時アルゼンチンは左翼ゲリラとの内戦状態にあったと弁護していた。 2012年7月5日には左翼系活動家の子供を強制的に軍人の養子にしていた事件に関与していたとして元大統領レイナルド・ビニョーネとともに有罪判決を受けた(ビデラは禁錮50年、ビニョーネは禁錮15年)。 2013年5月17日、収監中のマルコスパズ刑務所にて死去。
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