トップとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/07 10:17 UTC 版)
「パッツィー・クライン」の記事における「トップとして」の解説
男性歌手を前座にし、彼女は女性がメインのコンサートを行なう最初の女性カントリー・ミュージック・スターとなった。 バンドが女性歌手をバックアップしていた時代、彼女は逆にバンドをリードした。彼女は業界内の男性達にも尊敬され、女性歌手の紹介に用いられるような「Pretty Miss Patsy Cline (かわいいミス・パッツィ・クライン)」という言葉よりも、例えば1962年のジョニー・キャッシュのツアーでの「Ladies and Gentlemen, The One and Only – Patsy Cline (紳士淑女のみなさん、唯一無二のパッツィ・クライン)」という紹介のされ方をしていた。アーティストとして彼女はファンをとても高く尊重し、コンサートの後何時間もおしゃべりやサインをしたり、時には友達になることもあった。 彼女はニューヨークのカーネギー・ホールで演奏した最初の女性カントリー歌手となり、仲間のオープリー・メンバーに出演料を分けた。この演奏は芸能記者ドロシー・キルガレンから明らかな非難を受けたが、クラインは雄弁に反論した。1962年終盤、キャッシュと共にハリウッド・ボウルで演奏し、さらにミント・カジノでも演奏したことでラスベガスでメインのコンサートを行なった最初の女性カントリー歌手となった。ロサンゼルスのラ・ブレア近くのピコ通りにあるミント・カジノで今もその時のサインを見ることができる。 この成功により、ナッシュビル郊外のグッドレッツヴィルに、夢であった邸宅を購入し、自身の好みに装飾した。バスルームのタイルには砂金が散りばめられ、ミュージック・ルームには最高の音楽設備を施した。『The Real Patsy Cline 』でロレッタ・リンは「彼女は私を前庭に呼び寄せ「素敵でしょう。母が来てくれたらもっと幸せ」と言っていた」と語った。ミントでの出演料でこの家を購入できたため、クラインはこの家を「ベガスが建てた家」と呼んだ。1963年に彼女が亡くなった後、歌手のウィルマ・バージェスが購入し、ナサウアにそこに住んでいる間「不思議な出来事」が起こっていたと語った。 出演料は上がり、当時公表されていなかったが女性カントリー歌手の平均が200ドルであった晩年には少なくとも1,000ドルを得ていた。アラバマ州バーミングハムで行なわれた、最後から2番目のコンサートでは3,000ドルを挙げた。 新しい洗練された曲に合うようにクライン自身のスタイルも再考され、彼女のトレードマークであったウエスタン・カウガールの服装をやめ、よりエレガントなカクテル・ドレス、ピンヒールの靴、金ラメのズボンなどを着用するようになった。カントリー界にとって当時斬新であったタニヤ・タッカーのタイトなレザー・パンツやリーバ・マッキンタイアの真っ赤なドレスなどが世に出る以前のことであり、パッツィの新しいイメージはリスクを負い、そしてまたセクシーでもあったとされた。当時保守的であったカントリー・ミュージック界では女子はギンガムやキャリコのドレスを着ることが慣習となっていた。彼女の音楽性のように彼女のファッションは最初は嘲られたが次第に手本となっていった。彼女はまたぶら下がるタイプのイヤリング、ルビーのような赤い口紅、『ウィンド・ソング』という名の香水を愛した。 5年半のキャリアの最中、10以上の賞を受賞し、彼女の没後もMusic Reporter、ビルボード・ミュージック・アワード、キャッシュボックス賞などを受賞した。 彼女は自身の成功に関して友人のアン・アームストロングに「とても素晴らしいことだけれども、1963年には何をしたらいいの。これ以上のことはできないわ」と手紙に記している。
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