トップの変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 16:04 UTC 版)
組織委員会委員長は第1回(1985年)から第9回(1996年)まで瀬島龍三であるが、瀬島は記者会見にほとんど出席せず、第一回から陣頭指揮に当たったのは実行委員長の岡田茂であった。開催発表会見で真ん中に座るのも第一回から第11回(1998年)までずっと岡田で、最初の発言者も岡田で、次がゼネラル・プロデューサー(以下、GP)であった。この間、開催発表会見は4人から7人が出席して行われたが、奇数の出席の時は真ん中が岡田で、偶数の時は岡田とGPが真ん中。京都開催だった第7回(1994年)の開催発表会見は7人の出席で、真ん中が岡田で、岡田の両隣りが徳間康快GPと荒巻禎一京都府知事だった。岡田がトップと周りからも認知されていたものと見られる。 瀬島は組織委員会委員長を第9回(1996年)まで務めて勇退。第10回(1997年)と第11回(1998年)の組織委員会委員長は樋口廣太郎が務め、第12回(1999年)に第一回から11回まで実行委員長だった岡田茂が組織委員会委員長に就任し、岡田の後任実行委員長には石田敏彦が就いた。第13回(2000年)開催の直前に徳間康快が急逝したため、第13回は石田敏彦が実行委員長とGPを兼任した。 GPを最初から岡田茂とする文献も見られるが、GPは、第1回(1985年)が小谷正一、第2回(1987年)、第3回(1989年)が石田達郎、第4回(1991年)から第12回(1999年)までが徳間康快。京都で開催された第7回(1994年)は、徳間でなく、京都に縁のある高岩淡と奥山融が二頭GPを務めた。第13回(2000年)が石田敏彦、第14回(2001年)、第15回(2002年)が川内通康、第16回(2003年)から第20回(2007年)までが角川歴彦。角川が第18回(2005年)で、GPをチェアマンと改称。第21回(2008年)から第25回(2012年)までのチェアマンは依田巽。第26回(2013年)からチェアマンの代わりの役職として新設されたディレクター・ジェネラルに椎名保が就任。2017年3月10日、ディレクター・ジェネラルからフェスティバル・ディレクターに役職名を変えた役職に、元ワーナーブラザース映画副代表であり、松竹で常務取締役などを務めた久松猛朗が就任した。2019年7月からは元駐イタリア大使の安藤裕康がチェアマンに就任している。 1991年の第4回から徳間康快がGPに就任した経緯は、それまでGPを務めていた石田達郎が体が悪いのにカネ集めで苦労しており、岡田茂実行委員長から「徳さん何とか協力してやってくれないか」と頼まれていた徳間が「映画祭はよく知らないから」と断っていたが、1990年7月に石田が突然亡くなり、徳間「どうせオレに声をかけるんだからゼニだろう」岡田「実はそうなんだ」徳間「じゃあ、一生懸命やるよ」と引き受けることになった。徳間「で、第3回はいくらでやったんだ?」岡田「6億だ」徳間「発展させるには従来の倍のカネをかければいい。今回はキリのいい10億円でやろう」と、二人の話で「隔年開催では効果が薄いから毎年定期的に開催しよう。西のカンヌ、東の東京と銘打ってやろう。映画人が力を結集して映画界全体でやろう」と決まった。第2回と第3回は石田達郎がGPを務めていた関係から、フジサンケイグループがバックアップをした。このため東映以外の映画会社はあまり協力的でなかったが、徳間の就任でようやく映画界全体で協力をしようとなり、松岡功東宝社長が広報委員長に就いた。記者会見の時は「アジアを中心に意義と価値のある重要な映画祭にし、カンヌ、ベネチアと並ぶ三大映画祭にしたい」と発表した。徳間の自宅の四軒隣りが鈴木俊一東京都知事宅で、第3回のときに徳間と岡田で鈴木宅を訪れ1億円出してもらっていたが、徳間はGPに就任すると今度は鈴木に「毎年8億円出してくれ」と頼み、鈴木から「どういうことだ?」と言われたから「"東京"国際映画祭なんだ。カンヌでもベルリンでもベネチアでもみんな市がやっている。だから東京都が前面に立ってやってもらわないと困るんです。でないと"日本"国際映画祭になっちゃうから」「とりあえず今年は4億出してくれ」などと説得。通産省にはそれまでの1億5000万円だった助成金を2億円にアップさせた。徳間は中国に強いパイプを持つことで知られるが、台湾にも参加してもらって然るべきと岡田と二人で台湾に行って台湾の参加を正式に決めた。またカンヌのように世界中からバイヤーを集めるようにするには、短期的な方策としてはいいだろうと入賞作品の賞金を増額させた。バブル崩壊があり、資金集めが苦しくなったが、第5回から日本で初めてフィルム・マーケットが開かれた。GPに就任するとスポンサー集めに奔走しなければならず、岡田が第2回のとき、鹿内春雄に頼んだが断られ、徳間以降のGPはたいたい1回か2回で辞めている。2001年から二年務めた川内通康も「おまえ、石田のオヤジがやってたじゃないか。おまえ、その愛弟子じゃないか」と岡田から痛いところを突かれての就任。2003年も岡田がいろんな人にあたったが全員に断られ、角川歴彦は「この場で受けてもらわないと今年の開催ができない」と岡田から強い説得を受け、渋々承諾し第16回から六代目GPに就任している。
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