政権へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 14:50 UTC 版)
日本による朝鮮出兵以後、政権は北人が掌握していたが、世子冊封問題で北人は大北と小北に分裂した。大北と小北が党争を繰り広げる中、南人は下野したままでいた。その後、1623年に光海君を王座から追放した仁祖反正が起こると北人の勢力は壊滅し、西人が政権を握ることになった。もちろん南人は下野したままであった。 第18代国王として顕宗が即位すると、当時南人の領袖であった許穆は西人を排撃する好機と見た。孝宗が薨去した際、仁祖の継妃であった荘烈王后の服喪期間が問題となった。荘烈王后は孝宗の義理の母にあたるが、李氏朝鮮では子を亡くした親は長男であれば3年、長男以外であれば1年喪に服すのが慣例になっていたが孝宗を嫡男とみなすか否かで議論を醸していた。そこで西人の領袖・宋時烈が1年喪を主張し、議論に終止符が打たれた。しかし、許穆は議論が尽くされなかったとの口実で3年喪を主張した。3年喪を主張するということは孝宗を仁祖の嫡男とみなすことであり、孝宗の正統性を高く認めることで南人勢力を伸張させる目的があった。しかし、南人の思惑通りに事は運ばれず、西人の見解が認められる形で終息した。(第一次礼訟論争) 1674年、孝宗の王妃仁宣王后が薨去した。すると再び荘烈王后の服喪期間をめぐって論争が起きる。長男の嫁が亡くなった場合、服喪期間は1年だったが、長男以外の嫁であれば服喪期間は9か月であった。この時、西人は9か月喪を主張したが、南人は孝宗の正統性を認める観点から1年喪を主張。顕宗は父の正統性を下げることは認めがたいため、南人の見解を採用した。結果として領議政に南人の領袖である許積が抜擢され、ついに50年続いた西人から南人が政権を奪ったのである。(第二次礼訟論争)
※この「政権へ」の解説は、「南人 (李氏朝鮮)」の解説の一部です。
「政権へ」を含む「南人 (李氏朝鮮)」の記事については、「南人 (李氏朝鮮)」の概要を参照ください。
- 政権へのページへのリンク