政権の獲得
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「イスマーイール1世 (ナスル朝)」の記事における「政権の獲得」の解説
スルターンの報復を恐れたアブー・サイードは、自身のカーティブ(書記官)であるイブン・イーサーを秘密裏の取引の交渉のためにマリーン朝へ派遣した。そして交渉の結果、アブー・サイードは北アフリカのサレの総督の地位と引き換えにマラガをマリーン朝へ譲り渡すことになった。しかし、交渉の存在はマラガの人々に知られるところとなり、この取引は背信行為であると見なされた。市民は蜂起し、イスマーイールを指導者として支持してアブー・サイードを権力の座から引きずり下ろした。イスマーイールは父親を拘束しなかったが、マラガで監視下に置いた。そしてアブー・サイードはイスマーイールが市外を訪れている間に逃亡を試みた疑いを掛けられ、マラガの市民に捕らえられた。イスマーイールは父親が危害を加えられる前に到着し、カルタマ(英語版)の城への投獄を命じた。後にアブー・サイードはイスマーイールの治世中にサロブレーニャ(英語版)の城に移され、そこで1320年に死去した。 スルターンのナスルへの反発はその後も続き、反ナスル派の人々はグラナダの宮廷からマラガのイスマーイールの拠点に逃れた。そして程なくしてイスマーイールは母親のファーティマとマラガを守るアル=グザート・アル=ムジャーヒディーン(英語版)の司令官であるウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラー(英語版)の助けを借りて反乱を再開した。イスマーイールがグラナダへ進軍を続けるにつれて軍隊の規模は膨れ上がり、首都の住民はイスマーイールのために城門を開いた。イスマーイールはエルビラ門(英語版)(イルビラ門)からグラナダに入り、ナスルが留まっていたアルハンブラ宮殿を包囲した。ナスルはフェルナンド4世の死と幼少のアルフォンソ11世(在位:1312年 - 1350年)の即位後にカスティーリャの摂政の一人となっていたペドロ・デ・カスティーリャに助けを求めようとしたが、カスティーリャの支援は間に合わなかった。その一方で、イスマーイールはアルバイシンの古い城塞(qasba qadima)に拠点を構えた。フランシスコ・ビダルによれば、イスマーイールは1314年2月14日(ヒジュラ暦713年シャウワール月27日)に自らをスルターンと宣言した。その後、イスマーイールとナスルはナスルがスルターンの地位を放棄してアルハンブラ宮殿をイスマーイールに明け渡すことで合意に達した。イスマーイールは2月16日にアルハンブラ宮殿に入り、イスマーイールの即位式は2月28日(ズルカアダ月12日)にアルハンブラ宮殿で執り行われた。ナスルは2月19日の夜に東部の都市であるグアディクスに向けて出発することが認められ、そこで総督として統治した。一方、イスラーム百科事典のナスル朝の項目では、ナスルはグアディクスへ2月8日(シャウワール月21日)に出発したと説明している。
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政権の獲得
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「クルチ・アルスラーン1世」の記事における「政権の獲得」の解説
クルチ・アルスラーン1世の父スライマーンはトゥグリル・ベグの従兄弟の子にあたり、1077年にルーム・セルジューク朝の独立を宣言して第一代スルタンとなったが、1086年に大セルジューク朝のスルタン・マリク・シャーに殺された。クルチ・アルスラーンは捕虜となりイスファハーンへ連行されたがマリク・シャーの死後釈放された。彼はテュルク人のオグズ・イヴァ部族(Oghuz Yiva)の軍の先頭に立って西へ進み、父が首都としたニカイア(現在のイズニク)に至った。彼はマリク・シャーに任じられて当地の知事となっていたガズニ(Ghazni)を退け、ルーム・セルジューク朝を再興した。 マリク・シャーの死後、これまで大セルジューク朝に従っていた各氏族、ダニシュメンド(Danishmends)、マングジェク(Mangujekids)、サルトゥク(Saltuqids)、チャカ(Chaka)、テングリビルミシュ・ベク(Tengribirmish begs)、アルトゥク(Artuqids)、シャー(Shahs)などが一斉に独立し、大セルジューク朝のスルタンの地位を争った。クルチ・アルスラーンはスミルナを支配しエーゲ海に大きな海軍を所有していたアミールのチャカ・ベイ(Chaka, Çaka Bey)の娘と結婚し勢力を広げた。しかし東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノスもアナトリアを奪還すべく策を練っていた。アレクシオスはクルチ・アルスラーンに手紙を書き、チャカが東ローマ帝国への侵入に先立ってクルチ・アルスラーンを狙っていると示唆した。クルチ・アルスラーンは兵を率いてスミルナへ向かい、義父であるチャカを宴席に招き、酔ったところを斬り殺した。
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