政権の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 04:42 UTC 版)
永禄12年(1569年)1月、信長が義昭の行動を制限する「殿中御掟」を成立させると、両者の対立が顕在化し始めた。ただし、信長が「殿中御掟」を出した意図については、信長による義昭の傀儡化であるとする従来の通説に対する批判が出され、近年では幕府権力の立て直しを意図したものであったと考えられている。 信長は元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いなどで、各地の敵対勢力を降していった。 一方、元亀3年(1572年)12月、武田信玄の「西上作戦」による三方ヶ原の戦いにおいて、信長の同盟者である徳川家康は敗退する。この状況をみた義昭は信玄の上洛と信長の没落の可能性を考えて、信長を切って信玄と結ぶことで政権の維持を図ろうとした。これによって、従来は信長だけでなく彼が擁立する義昭に対抗するために結ばれていた所謂「信長包囲網」は義昭を擁して信長に対峙するものに変わることになる。 元亀4年(1573年)4月に武田信玄は病死し、武田軍は甲斐に引き揚げた。これによって信長包囲網はほぼ崩壊した。 その後、信長は上洛し、一時的な和睦を経て将軍・足利義昭を河内に追放した。これにより、室町幕府は事実上消滅し、畿内に織田政権が確立したのである。その後、信長は浅井長政、朝倉義景、三好義継ら敵対勢力を滅ぼし、畿内周辺を勢力圏に収めた。
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