政権に対する不満
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 08:11 UTC 版)
「ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)」の記事における「政権に対する不満」の解説
イギリス農業はナポレオン戦争中、ナポレオンの大陸封鎖令によって結果的に保護された状態になっていたため、戦争終結とともに農業不況に陥った。そこでリヴァプール伯爵内閣は1815年に穀物法を制定して国内農業の保護にあたった。しかし穀物法は労働者層の生活費上昇を伴うため、地主以外からは批判された。また戦争終結で復員した者たちが失業者となり、社会不安が高まっていた。 そうした中で労働者運動が徐々に勃興するようになったが、これに対してリヴァプール伯爵内閣は徹底弾圧の姿勢で臨んだ。1816年にはイーリー・リトルポート暴動が発生し、ロンドンではスパ・フィールズ暴動が起きて、翌年に摂政のジョージ皇子が襲撃されるという事件が起きたため人身保護法が一年間停止された。しかし、人身保護法の停止に人々はブランケットの大行進で抗議した。1819年8月16日にはマンチェスターのセント・ピーターズ広場で開かれていた労働者階級の集会に治安判事の命令を受けた騎兵部隊が突撃をかけ、十数人が死亡、数百人が負傷するという惨事が発生したが(ウォータールーの戦いになぞらえて「ピータールーの虐殺」と呼ばれた)、リヴァプール伯爵はこの事件について詳しく調査することもなく、治安判事や軍による虐殺を擁護し、さらに集会やデモを禁止する「治安六法」を制定し、労働者集会の弾圧を一層徹底させた。1820年に閣僚の暗殺を計画していたカトー・ストレートの陰謀が発覚した。 政権への批判に加えて1820年に国王に即位したジョージ4世と王妃キャロラインの離婚訴訟の件で国王が離婚法案の提出をし、内閣もそれを支持したが、王妃は国民から人気があったため、リヴァプール政権は国民から強い批判に晒された。与党内でもこれに反対する動きがあったため結局離婚法案は廃案となった。ジョージ4世は代わりに野党のホイッグ党に組閣させようとしたが、国王はすでに野党からもよく思われてなかったため、これを断念した。これは国王が思いのままに首相を組閣できなくなったのが露呈した一件だった。
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