バキエフ政権時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 05:58 UTC 版)
2005年、議会選挙の結果が問題になり、正当な政権であると主張する与党との間で混乱が起きた。7月10日、臨時大統領で野党指導者のクルマンベク・バキエフが大統領選挙で地滑り的勝利を収めた。(チューリップ革命参照) 2006年、バキエフはビシュケクで数千人が一連のデモに参加するという危機に直面した。デモ隊は大統領権限を制限し議会と内閣にもっと権限を与える憲法改正の約束を守っていないと非難した。汚職や犯罪、貧困問題を撲滅できていないとも非難した。バキエフは自分に対するクーデター計画があるとして野党を次々と起訴した。議員数人がこの混乱の中で殺されている。 2009年3月29日、バキエフ大統領のスポークスマンは、2001年以降駐留している米軍の基地を閉鎖する方針に変更はないことを明言した。 2009年7月の大統領選挙ではバキエフが大差で勝利したが、この裏では大規模な選挙違反が行われているという見方が専らであった。政権中枢にはバキエフの次男のマクシムが入り、汚職を始めとした放漫ぶりが広まると、国民の政権に対する不満は高まりみせ2010年4月に始まった反政府運動によりバキエフはビシュケクを脱出、政権は事実上崩壊。4月7日、野党勢力は指導者で元外相のローザ・オトゥンバエヴァを首班とする臨時政府の樹立を宣言し、バキエフは政権の座を追われた。
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